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3 街道の歴史
(1) 万葉の古道〜塩津道(深坂越)〜
塩津湊から大川(塩津川)東岸沿いに北上し、沓掛村(滋賀県西浅井町)で越前国境
野坂山地の深坂峠を越えて追分村(福井県敦賀市)へ出る深坂越は、古代から利用された塩津道でした。
この深坂越の山を古くは塩津山と称しましたが、「万葉集」巻三の笠朝臣金村の歌に
「塩津山うち越え行けば我が乗れる馬そ爪づく家恋ふらしも」とあります。
神亀4年(727)笠朝臣金村は平城京から近江へ入り、琵琶湖水運で塩津湊で下船して、深坂越で敦賀津へ向かう途中、この歌を詠んだものといいます。
(2)「源氏物語」の紫式部が越えた塩津道(深坂越)
長徳2年(996)9月、紫式部は父藤原為時とともに越前へ下向した時の歌と詞書が「紫式部集」にあります。
「塩津山といふ道のいと繁きを 賎(しず)の男のあやしきさまどもして『なおからき道なりや』
といふを聞きて『知りぬらむ往来にならす塩津山世に経る道はからきものぞと』」と詠んでいます。
訳しますと「塩津山という道に草木が茂り、輿(こし)を引いて荷物を運ぶ男たちがみすぼらしい姿で
『やはりここは難儀な道だなあ』と言うのを聞いて、お前達もわかったでしょう。
歩き慣れている塩津山も世渡りの道としては辛いものだということが」というものです。
(3)「延喜式」に規定された雑物運送の官道・塩津道(深坂越)
平安初期の延喜式(注1)に「敦賀津より塩津に運ぶ、塩津より大浦に漕ぐ」とありますように、
古代から雑物運送の要路として公定駄賃は一駄につき米一斗六升と定められていました。
北陸道諸国から運ばれる大量の朱や海産物は、敦賀津から陸路を経て塩津に集まり、湖上から大津に荷揚げされ、陸路で平安京へ運ばれるのが公定ルートでした。
かつては深坂峠を通る馬が「上り千頭、下り千頭」といわれるほど栄えた峠道でしたが、
一番の難所で深い坂と名付けられたように延長3.5km、標高差250mの峠越えは人や牛馬を苦しめました。
このため近世初期、峠の東側1kmを迂回する新塩津道(新道野越)が開削され主道になっていきます。
注1:延喜式
「延喜」とは平安前期、醍醐天皇の時の年号であり、西暦901年7月15日〜西暦923年閏4月11日までの間をいいます。
延喜式は弘仁式・貞観式以降の律令の施行、細則を取捨・集大成したもので五十巻あり、三代式の一つです。
延喜5年(905)醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集したもので、延長5年(927)成立、康保4年(967)施行されました。(出典:小学館「国語大辞典」)
(4) 日本海と琵琶湖を結ぶ運河計画と深坂地蔵
平安末期、平清盛は当時、越前守護の平重盛に命じ、日本海と琵琶湖を結ぶ運河の建設に着手しましたが、
深坂峠の沓掛村側に祀られた深坂地蔵付近において巨岩に阻まれ運河の建設を断念したと伝えられます。
このため、この地点に地蔵を祀り深坂地蔵と名付けましたが、運河着手を阻んだ地点の地蔵であることから掘止地蔵とも称します。
その後、時代が下って幾度か運河計画が持ち上がりましたが実現しませんでした。
享保5年(1720)には京都の塗師・蒔絵師の幸阿弥伊予が運河開削を願出て、幕府役人の視察も行われましたが湖岸漁民の反対などで不許可になっています。
(5) 塩津道〜新道野越〜の開削
古来からの塩津道(深坂越)が険路であったため、その東方を迂回する新道野越えが開かれ、以後、この道が主要道になりました。
この道は安土・桃山期の天正17年(1589)に開削されたとありますが、実際は室町末期の弘治年間(1555〜1558)までに開かれていたようです。
近世、年貢米をはじめ大量の物資が輸送されるようになると急勾配の深坂越えは敬遠されるようになり、
半里(約2km)ほど遠回りになりますが傾斜が緩く雪も少ない新道野越えが開削され、七里半越(海津道)と並ぶ近江への主要道になっていきました。
これに関し、天正8年(1580)敦賀代官武藤安則が上り荷物の継場を定めた時、
新道野もその一つに加えられ、天正17年(1589)に道路改修が行われ大阪築城の荷物輸送に利用したとあります。
(6) 塩津道〜新道野越〜の改修と変遷
江戸期、塩津道(新道野越)は何度も改修されたようで、元禄2年、同4年(1689〜1690)には合計132日、延べ人夫1万9,508人を使って改修工事が行われています。
こうして塩津道(新道野越)は、敦賀から近江海津へ向かう馬借道に指定された七里半越(西近江路)に準じた道として扱われました。
深坂越えの古塩津道も安政年間(1854〜1859)道路改修が行われ一時賑わいましたが、
急傾斜であることに変わりがなく、その後改修されないまま廃道となっていきます。
このように急傾斜の塩津道(深坂越)改修が敬遠され、明治11年(1878)敦賀陸送会社の寄付金で
塩津道(新道野越)が荷車道に改修され、ますます貨客の往来が増加していきました。
それまで新道野越と呼ばれた塩津道は、明治11年(1878)の道路改修以後、正式に塩津道と呼ばれるようになり、
国道の指定を受け、大正9年(1920)国道12号、さらに現在は国道8号と改称されました。
国道8号は昭和28年(1953)道路幅も改修され、北陸と近畿・東海を結ぶ幹線道路となりました。
現在、JR北陸本線が廃道になった深坂峠の下をトンネルで通過し、新疋田駅から近江塩津駅間を結んでいます。
下の左写真は塩津浜集落の北口に天保5年(1834)に建てられた街道沿いの常夜灯(石灯籠)で、
右写真は塩津浜の旧街道風景ですが、江戸期の街道の面影をとどめています。
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