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塩 津 道



敦賀市疋田の旧道と舟川風景敦賀市疋田の旧道と舟川風景


1 塩津道(敦賀市疋田〜滋賀県伊香郡西浅井町塩津浜)

 疋田村(敦賀市)から刀根川沿いを麻生口(敦賀市)へ進み、ここで分岐する柳ヶ瀬道(県道140号)を左に見ながら、次に奥麻生川沿いを進みます。

 さらに新道村(敦賀市)から新道野を越えて近江(滋賀県)へ入り、沓掛村(伊香郡西浅井町)、余村(伊香郡西浅井町)を経て

 塩津浜村(伊香郡西浅井町)に至ったのが塩津道であり、現在の国道8号がこのルートを引き継いでいます。

 これより古い塩津道は、疋田村から西近江路(七里半越)を進み、追分村(敦賀市)から深坂越で沓掛村へ出て塩津浜村に至った道です。

 しかし、深坂越えは険しく難路でしたので、天正17年(1589)新道野を迂回する道が開削され、以来、この道が主要な塩津道となりました。



2 街道の宿場な

(1) 疋田村
(敦賀市疋田)

 野坂山地の東部、笙ノ川と五位川の合流する谷底低地に位置し、北東は塩津浜村(伊香郡西浅井町)に通じる塩津道(新道野越)、

 南は海津村(高島市マキノ町)に通じる西近江路(七里半越)が村内で合流していました。

 地名は鎌倉期に疋壇、江戸期は疋田村として、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)から小浜藩領、享保12年(1727)の家数84、人数411とあります。

 当村は前記主要道のほか刀根越(久々坂峠道)で北国街道へ通じる柳ヶ瀬道の分岐点も近くにあり、交通の要衝として賑わいました。

 このため当村には小浜藩の本陣が置かれ、郡内最大の宿駅として伝馬や荷物などを取扱う多数の問屋がありました。

 しかし、寛文12年(1672)河村瑞賢による西廻り航路が開かれると敦賀湊への米穀など積荷が減少し、天明5年(1785)頃には問屋は4軒に減少、明治初期には3軒になっていました。



◎ 舟川と川舟運送(敦賀市疋田)

 文化12年(1815)琵琶湖疎水計画が幕府と小浜藩の手で具体化し、翌13年(1816)小浜藩家老、

 三浦勘解由左衛門を普請奉行に敦賀町の小屋川(児屋川)と疋田村間の舟川工事が行われました。

 同年8月、幅9尺の舟川が完成し、川舟8艘に米23俵を積んで舟引60人で試運送されました。

 敦賀町から舟で運ばれた荷物は、疋田村からは牛車で近江の大浦村へ輸送されました。

 また、疋田総蔵屋敷に舟溜りを作って川舟を回転させました。しかし、川舟運送に荷物を奪われた馬借座の訴願により、天保5年(1834)廃止されました。

 のち安政2年(1855)京都町奉行与力両名が大浦、疋田、敦賀間の道路、川筋を検分し、安政4年(1857)廃止された舟川を再度、掘り起こし開通させました。

 この川舟も慶応2年(1866)大洪水で舟川が破壊され、今は疋田の集落を通る部分にわずかに水路が残るだけです。



古塩津道〜深坂越〜古塩津道〜深坂越〜


(2) 追分村(敦賀市追分)

 野坂山地の東部、三足富士(みあしふじ・標高290m)西麓の低位段丘上に位置し、集落の西を五位川が流れています。
 
 村内中央に西近江路(七里半越)が通り、当村で南進し海津へ向かう西近江路と南東の深坂峠

を越えて沓掛村(滋賀県伊香郡西浅井町)へ出て後、塩津浜村または大浦村に至る塩津道、大浦道に分かれていました。

 追分村の地名は、この分岐点にあたったので名付けられたものであり、江戸期、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領になりました。

 享保12年(1727)の家数20、人数108、安政年間(1854〜1859)塩津浜村へ出る深坂越の旧道が改修され、一時賑わいましたが、

 急坂難路のため明治11年(1878)新道野越えの塩津道が改修され、以後、深坂越による人馬の往来は激減しました。



(3) 新道村(敦賀市新道)・新道野(敦賀市新道野)

 野坂山地の東部、狭小な谷底盆地を通る塩津道に沿って集落がありました。

 地名の由来は「敦賀誌」に「この村は深坂より追分へ出し官道やみて、今の新道野街道開け始めん頃、

 奥麻生より出たるべし。いづかたにても、新たに出でて村居せしを何の新道という」とあります。

 江戸期、新道村として越前国敦賀郡に属し、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)から小浜藩領となり、村高は「正保郷帳」で田方53石余、畑方5石余の計59石余でした。

 当村は新道野越の要衝として山間の宿駅に指定され、新道村より約1km南の国境近くの新道野に

 寛永元年(1624)小浜藩は女留番所、高札場、米蔵を設置し、藩米の継立て基地とし、岩熊(やのくま)村(伊香郡西浅井町)の西村孫兵衛に藩米の運送をさせました。

 俵物をはじめとする上り荷物は新道野で継ぎ立て、特に冬季の上り荷物である藩米の多くが当地を通過し、問屋西村家が小浜藩の米を一手に引き受け塩津へ輸送しました。

 寛永19年(1642)問屋兼茶屋の西村孫兵衛が藩米の保管料である庭米(扱料)を辞退し、代りに三人扶持を給せられました。

 寛文年間(1661〜1673)以来、新道野から塩津までの賃銭(運賃)は、本馬127文、軽尻82文、人足61文と定められていました。

 当時、敦賀から塩津へ運ばれた主な物資は米と鰊、鱈、昆布など海産物のほか布、笠、木地などでした。

 安政5年(1858)の記録によれば塩津湊の問屋6軒が毎日、新道野に詰めて塩津谷9ヵ村の人馬役を指揮し、荷物運送のすべてを差配したとあります。


敦賀市新道野の国道8号敦賀市新道野の孫兵衛茶屋


 (4) 沓掛村(滋賀県伊香郡西浅井町沓掛)

 江越国境(滋賀・福井県境)の深坂峠を源に南東流する大川上流の山峡に位置した集落です。

 この大川に沿って塩津道が通り、北部で大浦谷に沿ってきた大浦道を合わせたあと分岐し、

 深坂峠を越えて追分村(敦賀市追分)へ、新道野峠(沓掛峠)を越えて新道野(敦賀市新道野)に至る二つの塩津道に分かれました。

 深坂越えは古代からの道で、道沿いに今も石畳や問屋跡が残っており、新道野越えは近世になって開削された新しい道です。

 沓掛村の地名は、草鞋
(わらじ)を掛けて旅の無事を祈ったことに由来するといわれます。

 地内にある深坂には平清盛の運河開削伝説のある深坂地蔵があり、古代の愛発関の所在地を同地辺に比定する説もあります。

 江戸期、沓掛村は近江国浅井郡に属し、寛永11年(1634)の村高254石余で山城淀藩領、

 その後、甲斐甲府藩領を経て、天保郷帳の村高369石余、家数104、人数530、牛3、馬46とあり、大和郡山藩領で幕末に至ります。



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西浅井町沓掛にある古塩津海道石碑西浅井町沓掛にある深坂地蔵堂


 (5) 塩津浜(滋賀県伊香郡西浅井町塩津浜)

 琵琶湖北岸にある塩津湾の湾奥、大川(塩津川)の河口左岸に位置した地名です。

 塩津湊は海津(高島市マキノ町)、大浦(伊香郡西浅井町)とともに湖北三湊の一つに数えられ、古代以来、畿内と北陸を結ぶ重要な湊でした。

 敦賀湊(敦賀市)に集められた越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の六ヵ国からの物資は、

 塩津道によって当湊に運ばれ、ここから湖上を大津に輸送し京都へ運ばれました。

 地名の「塩津」は、古代から都へ運ばれた塩の中継港であったことに由来するといわれます。

 江戸期、塩津浜村として近江国浅井郡に属し、寛永11年(1634)山城淀藩領で村高522石余とあります。

 その後、大和郡山藩柳沢氏領となり幕末に至りますが、享保9年(1724)大和郡山郷鑑によると当村の高540石余、

 家数171、人数817、牛1、馬13、医師2、桶屋2、船大工1、酒屋2、油屋5、柴屋6とあり、

 枝村として祝山
(ほりやま)、野坂、塩津中、岩熊(やのくま)、横波、余(よ)、集福寺、沓掛の塩津谷8ヵ村がありました。

 塩津浜は、古代より湖上から北国へ行く重要な湊で本陣、問屋が置かれ、安政5年(1858)には問屋が6軒あり塩津道、湖上運送の荷物すべてを差配しました。



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塩津浜の旧道沿い風景塩津浜の旧道沿い風景


3 街道の歴史

(1) 万葉の古道〜塩津道(深坂越)〜


 塩津湊から大川(塩津川)東岸沿いに北上し、沓掛村(滋賀県西浅井町)で越前国境

 野坂山地の深坂峠を越えて追分村(福井県敦賀市)へ出る深坂越は、古代から利用された塩津道でした。

 この深坂越の山を古くは塩津山と称しましたが、「万葉集」巻三の笠朝臣金村の歌に

 「塩津山うち越え行けば我が乗れる馬そ爪づく家恋ふらしも」とあります。

 神亀4年(727)笠朝臣金村は平城京から近江へ入り、琵琶湖水運で塩津湊で下船して、深坂越で敦賀津へ向かう途中、この歌を詠んだものといいます。



(2)「源氏物語」の紫式部が越えた塩津道(深坂越)

 長徳2年(996)9月、紫式部は父藤原為時とともに越前へ下向した時の歌と詞書が「紫式部集」にあります。

 「塩津山といふ道のいと繁きを 賎
(しず)の男のあやしきさまどもして『なおからき道なりや』

 といふを聞きて『知りぬらむ往来にならす塩津山世に経る道はからきものぞと』」と詠んでいます。

 訳しますと「塩津山という道に草木が茂り、輿
(こし)を引いて荷物を運ぶ男たちがみすぼらしい姿で

 『やはりここは難儀な道だなあ』と言うのを聞いて、お前達もわかったでしょう。

 歩き慣れている塩津山も世渡りの道としては辛いものだということが」というものです。



(3)「延喜式」に規定された雑物運送の官道・塩津道(深坂越)

 平安初期の延喜式
(注1)に「敦賀津より塩津に運ぶ、塩津より大浦に漕ぐ」とありますように、

 古代から雑物運送の要路として公定駄賃は一駄につき米一斗六升と定められていました。

 北陸道諸国から運ばれる大量の朱や海産物は、敦賀津から陸路を経て塩津に集まり、湖上から大津に荷揚げされ、陸路で平安京へ運ばれるのが公定ルートでした。

 かつては深坂峠を通る馬が「上り千頭、下り千頭」といわれるほど栄えた峠道でしたが、

 一番の難所で深い坂と名付けられたように延長3.5km、標高差250mの峠越えは人や牛馬を苦しめました。

 このため近世初期、峠の東側1kmを迂回する新塩津道(新道野越)が開削され主道になっていきます。



 注1:延喜式

「延喜」とは平安前期、醍醐天皇の時の年号であり、西暦901年7月15日〜西暦923年閏4月11日までの間をいいます。

 延喜式は弘仁式・貞観式以降の律令の施行、細則を取捨・集大成したもので五十巻あり、三代式の一つです。

 延喜5年(905)醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集したもので、延長5年(927)成立、康保4年(967)施行されました。(出典:小学館「国語大辞典」)




(4) 日本海と琵琶湖を結ぶ運河計画と深坂地蔵

 平安末期、平清盛は当時、越前守護の平重盛に命じ、日本海と琵琶湖を結ぶ運河の建設に着手しましたが、

 深坂峠の沓掛村側に祀られた深坂地蔵付近において巨岩に阻まれ運河の建設を断念したと伝えられます。

 このため、この地点に地蔵を祀り深坂地蔵と名付けましたが、運河着手を阻んだ地点の地蔵であることから掘止地蔵とも称します。

 その後、時代が下って幾度か運河計画が持ち上がりましたが実現しませんでした。

 享保5年(1720)には京都の塗師・蒔絵師の幸阿弥伊予が運河開削を願出て、幕府役人の視察も行われましたが湖岸漁民の反対などで不許可になっています。



(5) 塩津道〜新道野越〜の開削

 古来からの塩津道(深坂越)が険路であったため、その東方を迂回する新道野越えが開かれ、以後、この道が主要道になりました。

 この道は安土・桃山期の天正17年(1589)に開削されたとありますが、実際は室町末期の弘治年間(1555〜1558)までに開かれていたようです。

 近世、年貢米をはじめ大量の物資が輸送されるようになると急勾配の深坂越えは敬遠されるようになり、

 半里(約2km)ほど遠回りになりますが傾斜が緩く雪も少ない新道野越えが開削され、七里半越(海津道)と並ぶ近江への主要道になっていきました。

 これに関し、天正8年(1580)敦賀代官武藤安則が上り荷物の継場を定めた時、

 新道野もその一つに加えられ、天正17年(1589)に道路改修が行われ大阪築城の荷物輸送に利用したとあります。



(6) 塩津道〜新道野越〜の改修と変遷

 江戸期、塩津道(新道野越)は何度も改修されたようで、元禄2年、同4年(1689〜1690)には合計132日、延べ人夫1万9,508人を使って改修工事が行われています。

 こうして塩津道(新道野越)は、敦賀から近江海津へ向かう馬借道に指定された七里半越(西近江路)に準じた道として扱われました。

 深坂越えの古塩津道も安政年間(1854〜1859)道路改修が行われ一時賑わいましたが、

  急傾斜であることに変わりがなく、その後改修されないまま廃道となっていきます。

 このように急傾斜の塩津道(深坂越)改修が敬遠され、明治11年(1878)敦賀陸送会社の寄付金で

 塩津道(新道野越)が荷車道に改修され、ますます貨客の往来が増加していきました。

 それまで新道野越と呼ばれた塩津道は、明治11年(1878)の道路改修以後、正式に塩津道と呼ばれるようになり、

 国道の指定を受け、大正9年(1920)国道12号、さらに現在は国道8号と改称されました。

 国道8号は昭和28年(1953)道路幅も改修され、北陸と近畿・東海を結ぶ幹線道路となりました。

 現在、JR北陸本線が廃道になった深坂峠の下をトンネルで通過し、新疋田駅から近江塩津駅間を結んでいます。

 下の左写真は塩津浜集落の北口に天保5年(1834)に建てられた街道沿いの常夜灯(石灯籠)で、

 右写真は塩津浜の旧街道風景ですが、江戸期の街道の面影をとどめています。




塩津浜の旧道沿いにある常夜灯塩津浜の旧道沿い風景


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
角川日本地名大辞典25滋賀県 角川書店
日本歴史地名大系25滋賀県の   平凡社
越前・若狭歴史街道    上杉喜寿著
福井県の歴史 県史18   山川出版社






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