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1丹波道(鯖街道)について 現在、小浜市から京都へ向かう主要道に国道162号があります。 当初、小浜市湯岡橋東詰から国道162号を西南進し、堀越トンネルへ向かう南川沿いの県内旧道(丹波道)と村々を探訪するつもりでした。 ところが調べてみると、古来、若狭小浜から丹波高地を越え、京都へ向かった道筋は幾通りもあり、時代とともに変遷していました。 これらの道は、主に行商、木地師たちの物資運搬に利用され、公用で利用されることが少なかったようです。 また、塩鯖を京都まで運ぶことが多かったので、いつの頃からか鯖街道と呼ばれるようになり、幾通りもの道筋ができました。 その主な道筋を史料から挙げると次のようになります。 (1)小浜から南川を遡り、久坂、堂本から知井坂で国境を越えて鷹峯 から京都へ入る道 (2)小浜から南川を遡り、久坂で分岐し、虫鹿野を経て杉尾峠(生杉越) で国境を越えて鞍馬から京都へ入る道 (3)高浜から福谷坂峠、石山坂峠を経て口坂本から棚野坂で国境を越え て鞍馬から京都へ入る道などです。 そのほか丹波越えではありませんが、近江越えで京へ向かった道として (1)小浜から遠敷、上根来を通り、針畑峠で国境を越え、近江へ出て、 大原から京都へ入る道 (2)小浜から熊川街道(九里半街道)を通り、保坂から朽木谷へ入り途中 峠を経て、大原から京都へ入る道などがありました。 史料からみると堀越峠への道筋が出てきませんから、昔は前述の道ほど利用されなかったようです。 ただ、棚野坂と堀越峠は近接していましたから、峠付近で同じように国境を越えて丹波へ下ったであろうとは推測できます。 そこで、各種史料を参考に若狭小浜から名田庄の主な村々と旧道の歴史を辿ってみることにしました。 2小浜から名田庄への道
(1)青井から谷田部へ 江戸期、城下町小浜から名田庄への道は、城下南西隅にある青井村で丹後街道から丹波道(鯖街道)が分岐し、谷田部村へ向かっていました。 谷田部村は南川下流域の平坦地でしたが、その前に熊野山西麓にある標高約110メートルの谷田部坂がありました。 谷田部坂は小浜城下から京都へ向かう丹波道の入口でしたが交通の難所で、 大正12年(1923)谷田部トンネルが開通するまで、物資の運搬はすべて南川の舟運を利用しました。 現在は峠下を谷田部トンネルが抜け、県道222号(中井青井線)が通っており、旧峠道は廃道になりました。
(2)青井と青井城跡(小浜市青井) 青井村は後瀬山の北西麓、標高152メートルの青井山南西麓に位置し、青井山の鞍部を勢坂峠と呼び丹後街道が通っていました。 現在は、この峠下を国道27号、JR小浜線のトンネルが貫通しています。 南北朝期の康永3年(1344)若狭国守護として入部した大高重成が当地に高成寺を再興し、 戦国期の永禄年間(1558〜1569)青井山に武田氏家臣柄神庄司介の山城があったといわれます。 その後、若狭国守護として入部した武田信賢が青井山に築城、高成寺付近に居館を置いて、後瀬山城に移るまで領国支配の拠点としました。 現在、寺の北一帯は小浜公園となり、山頂からの尾根が青井崎となる付近に国民宿舎などが建っています。 江戸期、青井村は19戸、100人ほどの村でしたが、小浜城下西側の入口に当たったので、青井口木戸が設けられました。 ほぼ東西に丹後街道が村内を通り、西にある勢坂峠が大飯郡との境界でした。 時代が下るにつれ、町屋、寺院、農家が混在するようになり、集落の一部は城下町に含まれるようになりました。 (3)谷田部(小浜市谷田部) 谷田部は名田庄流域の産物が小浜に入る道筋に当たり、古来から南川流域の中名田、奥名田とのつながりが深い土地柄です。 江戸期、110戸ほどの村が池上、門前、池明神、中条などの集落に分かれていました。 明治はじめ口名田村の大字、昭和26年(1951)から小浜市の大字となりました。 (4)中井(小浜市中井) 谷田部村の南に195戸ほどの中井村がありました。この村は南川支流、五十谷川流域に位置し、 明治12年(1879)、五十谷(いかたに)、滝谷、新滝谷、飛川の4ヵ村が合併し成立しました。 明治22年(1889)口名田村の大字、昭和26年(1951)小浜市の大字になりました。 明治以降、養蚕が盛んになり、明治25年(1892)上中井製糸会社、同29年(1896)口名田製糸会社が設立され、 大正期の口名田村産業の中心地になりました。大正2年(1913)口名田酒造会社も設立され、名田庄一円に販売網を広げました。 (5)相生(小浜市相生) 南川中流域に位置、明治12年(1879)桂木村、窪谷村が合併して成立した戸数124戸ほどの村です。 明治22年(1889)口名田村の大字、昭和26年(1951)から小浜市の大字になりました。 江戸期に始まった瓦製造業は明治期以降さらに盛んになり、大正2年(1913)製造業者20軒、窯数33がありました。 製品は川船を利用して小浜に運ばれ、越前や北海道まで販路を拡張したといわれます。 西相生は南川に架かる丸木橋が村への唯一の入口でしたが、明治23年(1890)山腹に道路が開削され交通の便が開けました。 (6)和多田(小浜市和多田) 田村川と南川が合流する地域に位置、田村川両岸の大原、下和多田、上和多田、塩瀬の4集落からなり、古くからある地名です。 江戸期、小浜藩領で84戸、570人ほどで、古代から紙漉きを生業にしたと伝えられますが、江戸期には確実に和紙づくりをしていました。 また、鮎など川漁も行い、延宝5年(1677)の記録には9人の川漁師がいました。 鮎漁の解禁は5月中ごろと定められ、川漁師には小浜藩から鮎川札が交付されました。 明治25年(1892)頃製糸工場が設立され養蚕業が盛んになりましたが、昭和期に入り衰退、昭和20年(1945)養蚕農家はわずか3戸になりました。 明治22年(1889)中名田村の大字、昭和26年(1951)から小浜市の大字になりました。 (7)三重(おおい町名田庄三重) 南川中流域の平野部に位置し、名田郷でも最も早く田地が開墾された地域といわれ、平安期にその名が見えます。 中世、名田庄は上荘と下荘に分けられ、三重村は下荘に属しました。 江戸期、田畑併せ556石余、家数145、人数770人の大きな村で、枝村に関根、秋和、深野、尾ノ内、兵瀬、山田、下三重がありました。 明治はじめ南名田村、明治24年(1891)知三村、昭和30年(1955)から名田庄村の大字となり、当村は名田庄村の平坦部を占めて、主に米麦のほか麻糸を生産しました。 平成18年(2006)おおい町名田庄三重となりました。
(8)久坂(おおい町名田庄久坂) 南川中流域に位置し、江戸期、挙野村、小倉畑村を併せ、知見村と総称しました。 当村は道路交通の要所であり、物資の集散地として機能するとともに川船輸送の拠点でもありました。 当村から堂本を経て知井坂越えの丹波・京都へ通じる道が通り、南川沿いには久田庄谷を遡る坂本道があり、 さらに南川の支流久田川に沿って、近江へ通じる針畑越え、丹波へ通じる杉尾坂越えなどがあり、交通の要所として早くから旅籠ができました。 明治はじめ南名田村、明治24年(1891)知三村、昭和30年(1955)から名田庄村の大字になり、平成18年(2006)おおい町名田庄久坂になりました。 大正3年(1914)、川船による小浜への木炭輸送は年間16万俵あったといい、昭和30年(1955)以後も村役場はじめ産業振興の中枢機関が置かれました。 (9)堂本(おおい町名田庄堂本) 南川の中流域、その支流堂本川流域に位置した地域で、古くは知見郷に属し、井上、塚本、坂尻、笹尾など小村を併せ堂本村と呼びました。 江戸期、家数28、人数149の村で、主に農業と炭焼きを生業にしました。 地内の東側にある仁吾谷は、古来、栃や欅が生い茂る深い谷で、木地師たちの集落がありました。 明治はじめ南名田村、明治24年(1891)知三村、昭和30年(1955)から名田庄村の大字になり、平成18年(2006)おおい町名田庄堂本になりました。 村の南に標高800mの八ヶ峰と呼ぶ高山があり、その西方の鞍部を越える丹波・京都への道が早くから開け、知井坂(血坂)越えと呼ばれました。 3名田庄から丹波への道
(1)知井坂越え(おおい町・南丹市) 堂本村から小松谷と染ヶ谷に挟まれた稜線(尾根道)を登り、八ヶ峰西方の標高710メートルの鞍部を越えました。 これが知井坂越えで小浜と丹波・京都を結ぶ丹波道の一つに挙げられています。 峠名の由来は知見(南丹市)へ越えたから、そのように呼ばれたのでしょうか。 また血坂、千坂ともいわれ、その由来は、この坂を越えるのに血涙を流したからとか、 南北朝期の激戦で血の川が流れたからともいわれますが、確かなことは分かりません。 江戸期から大正期まで、小浜から久坂村まで南川の舟運を利用し、堂本村の南から尾根道をたどって知井坂を越え、 主に知見の八原(現在、南丹市地籍、廃村)へ牛の背に付けた若狭米を運んだといいます。 特殊な鞍を使って、牛を追いながら峠を越え、丹波の由良川沿いにあった田歌(とうた)、芦生(あしう)などの村まで日帰りしたようです。 雪が消えるのを待って、年間1万3,000俵余の米が運ばれましたが、大正12年(1923)由良川沿いに車道が開通すると 次第に往来も減り、東の五波坂、西の堀越峠の改修とともに廃れていきました。 (2)染ヶ谷(おおい町名田庄染ヶ谷) 染ヶ谷(しがたに)村は、明治はじめ志見ヶ谷村が改名した村で、南川の中流域、同支流染ヶ谷川流域の山間地にあります。 古くは知見郷に属し、この村の西南方にある八ヶ峰の東方鞍部から五波坂(古奈美坂)越えで丹波への峠道がありました。 戸数7、人数40の小村でしたが、山林340町を持ち、明治以降、全戸が炭焼きを生業としました。 毎日、炭を背負って久坂まで出て食品を買って帰りました。また、栗の角材、杉の円木を筏に組み、川に流し久坂まで運ぶ仕事もしていました。 明治22年(1889)南名田村の大字、明治24年(1891)知三村の大字、昭和30年(1955)名田庄村の大字、平成18年(2006)おおい町名田庄染ヶ谷となりました。 なお、五波坂の東方に丹波の芦生へ越える権蔵坂の峠道もありました。
(3)五波坂(古奈美坂)と権蔵坂 染ヶ谷村を通り、染ヶ谷川の右岸へ渡ってから続く坂道の峠が標高600メートルの五波坂ですが、標高差を一気に300メートルほど登る急坂です。 染ヶ谷村から五波坂まで道程は一里ほどあり、昔から知井坂とともに人馬の往来があったようで「武者道」とも呼ばれました。 若狭小浜を領有した武田、京極、酒井の諸家が、一朝有事に際して、この坂道に兵馬を進めたからでしょうか。 知井坂より五波坂の方が迂回路になりますが、歩きやすかったためか大正12年(1923)荷馬車が通れるよう改修され、 南川源流の堀越峠が改修されるまで、五波坂越えが京道として盛んに利用された時期があったようです。 五波坂を越えて丹波高地の由良川沿いにある田歌、芦生間は「歩危」や峠道が多く、 大正12年(1923)車道が開通するまでは、この五波坂より東方にある権蔵坂から芦生へ若狭米が運ばれた時期もあったといいます。 名田庄から牛車で権蔵坂峠まで運ばれた米は、ここからは人の背で運ばれました。 峠名の由来は、若狭牛方の権蔵という人が、この峠を開いたので、その名前が峠名になったと言い伝えられます 大正12年(1923)に丹波側の美山町(現在南丹市)田歌ー芦生間に車道ができると、この峠も廃れていきました。 このように若丹国境にある諸峠の通行状況をみますと、大正12年(1923)の車道開通が峠道の盛衰を決したように思います。 (4)虫鹿野(おおい町名田庄虫鹿野) 南川の中流、同支流久田川の下流に位置した地域で、久田川は古くは久多川とも書き、この流域一帯の山間部を久多河内と呼びました。 久多河内一帯に散在する小村は、すべて奥深い山間にあり、丹波、近江、若狭に跨る 標高776mの三国岳を中心に活躍した木地師集団が居住したが集落だったようです。 この久多河内から針畑越えや杉尾坂越えなど近江や丹波に通じる間道が通じ、隣国との交流があったようです。 江戸期、虫鹿野(むしがの)村は、本村のほか、久田川上流域に散在した小村を本村の枝村として虫鹿野一村にまとめました。 明治22年(1889)本村、枝村とも南名田村の大字になり、本村は家数23、人数154でしたが、 虫鹿野、虫谷、木谷、出合、永谷、挙原を併せ戸数77、人口427人となり、主に炭焼きを生業にしました。 明治24年(1891)知三村の大字、昭和30年(1955)名田庄村の大字、平成18年(2006)からおおい町名田庄虫鹿野となりました。 (5)久田川(くたかわ) おおい町名田庄地区の東部を流れる南川の支流で全長13㎞あり、名田庄地区の 南東隅に位置する三国岳(標高776メートル)の北面に発し、久坂(小倉畑)で南川に合流します。 途中、出合で永谷川を、虫鹿野で虫谷川(むしだんかわ)を合わせ、上流から下流まで山地に深い谷を刻み、平地はほとんどありません。 上流の鍋窪谷に沿って鍋窪峠を越え、滋賀県朽木に至る道があり、また永谷川に沿って佐布峠又は野田畑峠を越えるか、 虫谷川沿いに杉尾坂を越えて、京都府南丹市(旧美山町)に至る道が通じ、往時は京都と若狭地方西部を結ぶ交通路を形成していました。
(5)杉尾坂(峠)など(おおい町・丹南市) 虫谷川沿いを源流に向かって登りつめると杉尾坂に至るはずですが、今では地元の人以外、ここから登る人はいないようです。 京都府側には京大芦生演習林があり、八ヶ峰や三国岳への登山者が尾根伝いを利用しています。 峠には標識も登山道もみえますが、今では峠道の役目を終え、往時を偲ぶ歴史も記すべきエピソードもありません。 三国岳西方の尾根には、かつては佐布峠、野田畑峠、杉尾坂、権蔵坂、五波坂など幾つもの峠が利用されましたが、時代の変遷とともに人口に膾炙されることなく廃れていきました。 今は登山愛好家が尾根伝いの目印として、かつての峠の所在地を残しているのが、往時を偲ぶせめてもの慰めといえましょう。
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