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中世、南川流域にあった名田荘の村々


1 名田庄から堀越峠へ

 丹波道【鯖街道】(1)で、小浜から久坂ー堂本ー知井坂越え、久坂ー染ヶ谷ー染ヶ谷川沿いー五波坂、権蔵坂越え、

 また、久坂ー小倉畑ー虫鹿野ー久田川沿いー虫谷川沿いー杉尾坂越えなどをみてきました。

 丹波道【鯖街道】(2)で、さらに久坂から南川を遡り堀越峠へ進みますが、まず南川流域の村々が名田荘と呼ばれた由来からみていきます。



2 名田荘の成立


 この地名は、古く平安末期に成立した荘園の名田荘に由来します。荘園になる以前の「名田郷」は、京都に住む左衛門尉盛信という人の私領でした。

 仁安3年(1168)盛信は、この地を高倉院に仕える伊予内侍の所領であった摂津国野間荘(兵庫県伊丹市)と交換しました。

 名田郷を手に入れた伊予内侍は、まもなく立券の手続きを行い、後白河院の発願で建立された京都蓮華王院(三十三間堂)を本家と仰ぐ荘園となりました。

 荘の領域は、現在のおおい町名田庄地区よりも広く、現在、小浜市域に入る中名田・口名田地域も含まれました。

 つまり、南川下流部の一部を除き、丹波や近江との国境にまで達する南川水系の大半が名田荘の領域でした。

 しかし、土地の大部分は山であり、平地は南川とその支流に沿った谷間に細長く続いているだけで、

 荘園が成立した頃の田地は、南川本流に流れ込む小支流の周囲に少しずつ開かれた程度でした。

 やがて、名田荘は「上荘」「下荘」から形成されるようになり、この頃、名田郷の領域は「下荘」に相当したと考えられています。

 鎌倉初期の建保3年(1215)以降、名田荘は南川の上流にあたる上村・坂本村・中村・下村の「上荘」と、

 下流寄りの知見村・三重村・田村からなる「下荘」とで形成されるようになります。

 その後、須恵野村、井上村、和多田村などができ、これらが中世名田荘の村々として定着していきました。(上図参照)


名田庄の田園風景名田庄の藁葺き風景


3 名田荘民の生活

 荘園領主の支配は、当初、水田に対する賦課を中心に進められましたが、荘民は水田だけでなく山と川の恵みを活かし生業としました。

 綿(真綿)を生産する養蚕、鮎をとる川漁、日常の衣料の繊維をとる苧麻や油を搾る荏胡麻、大豆などを栽培する畠地の耕作、

蕨・ぬかご・胡桃・栗・柿・椎の実など山菜や果実の採集に山や川を巧みに利用しました。

 領主は、こうした多様な生業にも賦課の網をかぶせようとしましたが、思ったほど賦課できなかったようです。

 とくに、大きな収入源は河川交通と林業で、南川は北陸屈指の湊を持つ小浜と名田荘を結ぶ河川交通路として、

また、陸上交通路は名田荘を通過する丹波道など京都へ向かう道として重要な役割を果たしました。

 林業は、植林や手入れを行う現在と異なり、自然に生えた樹木を活用するだけでしたが、

広大な山を有する名田荘では重要な生業で、伐採・造材・筏組み・川流しなど、これらの技術を持った人達が巧みに山と川を利用しました。



4 名田荘領主の変遷


 名田荘には多くの村ができたため、それぞれ複雑な相伝が行われ、紛争が多発したようです。

 南北朝期になると田村・下村・知見・井上の村々は、京都徳禅寺の僧・徹翁義亨のもとに集積され、

 上村は土御門家、中村は京都泉涌寺、須恵野村は京都醍醐寺三宝院へと、それぞれ領主が定まっていきました。

 しかし、これら領主の支配は長くは続かず、14世紀後半から次第に守護被官による押妨が始まります。

 この頃から日本国中が「乱世」に突入し、16世紀後半には荘園としての支配が困難な状況に陥りました。

 こうして名田荘は16世紀までに荘園としての実体を失い、戦国の世に突入していきました。

 かつての荘園名が「名田庄村」として近年まで残ったのは、南川単一水系沿いに山を生業とした多くの村々が共通の集合体として存続したためで、

その領域全体を示すのに「名田庄」という名は、この地域にとって何よりもふさわしかったからと思われます。

 その意味で名田庄は、はるか中世以来、一つのまとまった地域であったといえます。



5 南川上流を堀越峠へ

 久坂から南川沿いを遡ると、その流域に下・中・西谷・井上・口坂本・納田終と集落が続き、今は名田庄を冠したおおい町の大字名になっています。

 さらに納田終の堀越谷から峠へと旧道が続いていましたが、今は峠下を堀越トンネルが貫通し国道162号が通っています。

 それでは順次、村々の歴史をみながら南川上流へと遡っていきます。


おおい町名田庄地区おおい町名田庄地区


6 下(おおい町名田庄下)

 下は南川上流域に位置し、鎌倉期〜戦国期に下村の名が見える古い村で、地名の由来は、名田荘のうち上村(納田終)に対し、下村と呼ばれたことによります。

 名田荘は鎌倉期に上荘と下荘に分かれますが、下村は上荘の中心地として年貢収納を司る預所が置かれたようです。

 江戸期、家数66、人数369ほど、田畑317石余の村でした。明治22年(1889)奥名田村の大字名となりましたが、

 村内で最大の耕地を持った穀倉地であり、人口の密集した地域として村役場、駐在所が置かれました。

 しかし、明治24年(1891)役場は井上へ移転しました。当村にあった不動尊は、古来、霊験あらたかといわれ、近在はもとより丹波方面からの参拝者も多かったといいます。

 昭和30年(1955)から名田庄村の大字、平成18年(2006)からおおい町名田庄下となりました。



7 中
(おおい町名田庄中)

 中は南川の上流域に位置し、鎌倉期〜戦国期に中村の名がみえる古い村で、地名の由来は、名田荘のうち上荘に属し、

上荘の中でも下村の上流、上村より下流にあたるので中村と呼ばれたとようです。

 この頃、中村は井上
(いがみ)、西谷(にしだに)を含んだ広い地域だったと考えられています。江戸期の家数44、人数235ほど、田畑174石余の村でした。

 明治22年(1889)奥名田村の大字名となり、農業と製炭を主業としました。昭和30年(1955)から名田庄村の大字、平成18年(2006)からおおい町名田庄中となりました。



8 西谷
(おおい町名田庄西谷)

 西谷は南川の上流域、同支流西谷川の小扇状地に位置し、中世は井上村に含まれていたと思われます。

 当地に中世城跡として西谷城址があり、武田義統の家臣土屋氏の居城で、名田庄谷を支配したといいます。

 江戸期の家数16、人数83ほど、田畑73石余の村でした。明治22年(1889)奥名田村の大字となり、

昭和30年(1955)名田庄村の大字、平成18年(2006)からおおい町名田庄西谷となりました。

 当地は山林面積が広く林業従事者が多かったようですが、昭和28年(1953)の災害復旧後、

ブドウ栽培を始め、一時期特産品となりましたが、現在は薬草栽培に力を注いでいるようです。



名田庄風景名田庄風景


9 井上(おおい町名田庄井上)

 井上は南川の上流域に位置し、鎌倉期〜戦国期に村名がみえ、中村の「巌淵」の地は、

 ほとんど「井上内」にあるというのが初見ですから、この頃、中村から分村したようです。

 鎌倉末期には村名となり、坂本村と中村の間に位置し、上荘に属した別納地でした。

 江戸期の家数44、人数230ほど、田畑175石余の村でした。当地には一ッ谷国有林がありますが、

 江戸期に井上、口坂本、中村の入会山で、明治5年(1872)地租改正の際、谷の所有権を

 めぐって争い、井上村の総持と決まったものの口坂本村から裁定不服の申請があり、

たまたま官民有区別処分の調査時と、この争いが重なったため官有地に編入されました。

 明治22年(1889)奥名田村の大字、明治34年(1901)村役場が当地に移され、昭和30年(1955)名田庄村発足まで、奥名田村行政の中心となりました。

 昭和30年(1955)名田庄村の大字、平成18年(2006)からおおい町名田庄井上となりました。



10 口坂本
(おおい町名田庄口坂本)

 口坂本は南川と同支流坂本川の合流域に位置し、丹波、京都へ通じる交通の要所でした。

 小谷の山上には坂本城址があり、武田義統の配下、渋谷遠江守が築城したといわれます。

 また、浅井は今の小字朝比で、鎌倉期の朝夷三郎義秀の霊を祀ったという観音堂があります。

 当地は元々坂本村でしたが、文政9年(1826)山の入会権をめぐって争い、口坂本村と奥坂本村に分かれました。

 この時の捌書に奥坂本77石余、口坂本161石余とあり、分村後も実際の年貢納入は、江戸末期まで坂本村一村として扱われました。

 分村が最終的に確定したのは、明治4年(1871)の地租改正以後と思われます。

 明治9年(1876)郵便制度の普及に伴い、京都〜高浜間の交通要所である当村に郵便局が設置されました。

 明治22年(1889)奥名田村の大字、昭和30年(1955)名田庄村の大字、平成18年(2006)おおい町名田庄口坂本となりました。

 口坂本には、昔から高浜から福谷坂、石山坂峠を越えて坂本に下り、口坂本から久坂まで更に下って堂本を経由し、知井坂越えで丹波・京都に向かう道や、

口坂本から棚野坂を越えて丹波・大及へ下り、周山街道へ向かう道筋があり交通の要所でもありました。



棚野坂近くにある六地蔵棚野坂峠の標識


11 棚野坂越え
(おおい町名田庄納田終・丹南市美山町)

 高浜街道の中で、一番の難所だったという若丹国境にあった標高660mほどの古い峠です。若丹国境の700m足らずのピークを挟み堀越峠の東方にありました。

 若狭高浜から丹波へ通じる道筋にあたり、日本海で獲れた魚介類の運搬道として多くの行商人が利用しました。

 高浜園部から福谷坂、石山坂を越えて、奥坂本、口坂本に出ると、坂尻から支尾根を上り、棚野坂から丹波・大及へ下って鶴ヶ岡を経て周山街道へ向かいました。

 若狭越えの峠道は谷道は少なく、ほとんどが支尾根にとりつき、その尾根を上りつめた所が峠になっています。

 この峠も「鞍部」を利用した峠ではなく、口坂本の坂尻から上りつめ、向こう側に下らないで支尾根から主稜に達し、

 しばらく国境の主稜を歩いて向こう側の支尾根に取りついて下り、丹波の小集落だった大及(廃村跡)に至りました。



天社土御門本庁土御門家墓所


12 納田終(おおい町名田庄納田終)

 納田終は南川の最上流域、山間部に位置し、中世名田荘のうち「上村」と呼ばれた地域です。

 地名の由来は、名田庄の終わるところから名田終と呼び、それが転訛したものといわれます。

 戦国期に見える村名で、当村は名田荘時代に南川最上流の山峡地にあったため、近世に入ってからも中世荘園の遺訓を根強く留め、

太閤検地以降も「年寄衆」と「平の百姓衆」に分かれ、土地管理形態が依然として存続しました。

 なお、当地には中世京都の乱を逃れ、永正年間(1504〜1520)から慶長5年(1600)まで90年間、

 この地を本拠とした陰陽道の有力家系安倍家三代にわたる遺跡があります。

 当村は東西6㎞に及ぶ狭くて長い山村で、尼来峠(甘木峠)を越えて丹波へ通じた広大な山林に生業を求めました。

 江戸期、村落を構成する小字として南(南村)、新井(仁井)、白矢(白屋)、小和田、棚橋(種橋)、

小向、上ヶ谷(中野)、老左近(追迫)、野鹿(小松)、老良(於伊羅)、片又(都々羅野)という名の小集落があり、家数は109戸ほどあったといいます。

 小浜〜納田終間を国鉄定期トラックが運行するようになったのは昭和19年(1944)のことで、

それ以前の林産木材は南川を利用して筏で搬出したり、木炭は荷車や荷馬車によって久坂まで運び、川船で小浜へ運んでいました。

 また、納田終の棚橋から堀越谷を上り、堀越峠から丹波・大及へ下って周山街道へ向かう旧道がありましたが、

 自動車で物資の輸送ができるようになったのは、昭和26年(1951)堀越峠の開発工事が完成した後のことです。

 明治22年(1889)奥名田村、昭和30年(1955)名田庄村の大字、平成18年(2006)おおい町名田庄納田終となりました。



道の駅「名田庄」道の駅「名田庄」


13 堀越峠(福井県おおい町名田庄納田終・京都府丹南市美山町)

 おおい町名田庄納田終の南端、京都府境にある標高510mの峠で、現在、峠下を堀越トンネルが貫通し国道162号が通っています。

 峠名は昔、峠に設けられた関の堀によるとする説がありますが、峠下の棚橋集落から峠に向かう

旧道が堀越谷(南川支流)を通っているので、これと関わるのではないかともいわれます。

 古来、小浜又は高浜と京都を結ぶ最短ルートで丹波道又は周山街道の一部になっていました。

 この道筋は、小浜から南川に沿って久坂を通るルートと、高浜から福谷坂、石山坂を越えて坂本川沿いを進むルートが口坂本で合流した後、

さらに納田終の棚橋集落から堀越谷を上り、丹波・大及(廃村)へ下って、美山町鶴ヶ岡(丹南市)を経て周山街道へ向かいました。

 江戸中期から小浜藩発行の印札を携帯して300人余りの行商人が若丹国境の諸峠を越えたといいます。

 近世から大正期まで、塩鯖はじめ若狭の海産物やコメだけでなく、北海道や東北から小浜に陸揚げされた昆布や鰊等も行商人の背で鶴ヶ岡へ運ばれました。

 俳人の与謝蕪村もこの峠を越えて「夏山や通いなれたる若狭人」の句を残しています。また幕末、将軍に従った小浜藩主酒井忠禄は、

鳥羽・伏見の戦いに敗れ、わずかな藩兵に守られて、この峠を越え小浜へ逃げ帰ったといいます。



旧道堀越峠名田庄風景


 戦前の昭和11年(1936)峠下にトンネルを掘り、小浜から鶴ヶ岡を経て山陰線の殿田駅(旧船井郡世水村)に接続させる

京若鉄道が計画されましたが、日中戦争の勃発により着工が無期延期になりました。

 第二次大戦後の昭和21年(1946)6月、京都府の深見峠(北桑田郡平尾村と弓削村との間)のトンネル工事が着工されたのをきっかけに

京福路線問題が再燃し、これが幸いして昭和26年(1951)車道が完成、堀越トンネル着工の導火線となりました。

 昭和30年(1955)頃、京都〜小浜間を国鉄定期バスがこの峠(旧道)を越えて一時期運行したといいます。

 昭和49年(1974)峠の東下を全長1394mの堀越トンネルが貫通し、冬期の通行も確保されました。

 若丹国境を越えた諸峠のうち、今では唯一、若狭と丹波を結ぶ道として堀越峠道は生き残りました。

 旧峠道は幾度も改修されたため、現在、旧道をたどるのは困難ですが、峠道の京都府側途中から分岐して西方にある福居谷へ越える熊壁越えが本来の旧道だったようです。

 若丹国境には丹波・京都へ向かう数多くの諸峠がありましたが、平均高度700mほどの峠が多く、そのうち一番低い峠が堀越峠でした。

 そこで、この峠道に車道、トンネルがつけられ、若狭と丹波・京都を結ぶ重要な道に選ばれることになったのです。




主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県   角川書店発行
福井県大百科辞典       福井新聞社発行
歴史街道             上杉喜寿著
越前・若狭峠のルーツ        上杉喜寿著
福井県史通史編2中世          福井県
福井県史通史編3近世一         福井県



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