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国道8号から見渡した敦賀湾 | 国道8号から見渡した敦賀湾 |
1 敦賀街道(武生敦賀新道) 明治18年(1885)4月、春日野村(武生市)南方の妙法寺村(武生市)から西方の白崎村(武生市)の尾根を経て、 春日野トンネルー具谷ー大良ー杉津ー赤崎ー敦賀に至る全長11里12町2間(約44km)の道路建設が始まり、明治20年(1887)新道が開通しました。 この街道の一部は、すでに明治9年(1876)から敦賀側の金ヶ崎七曲り道を永厳寺裏から出る道に付け替える改修工事が始められており、 阿曽(敦賀市)トンネルが開通して従来の利椋峠を越える道が廃止され、続いて金ヶ崎トンネルもつけられ海岸沿いの道が杉津(敦賀市)まで完成しておりました。 こうして敦賀・武生間の交通は敦賀街道が中心になり、「西近江路」と呼ばれた木ノ芽峠を越える敦賀・今庄間の道は、管理対象外になって衰退しました 新設された敦賀街道は、その後、明治22年(1889)に敦賀道とされ、その後、明治37年(1904)内務省告示によって国道53号となりました。 国道53号は軍事的見地から金沢第9師団と舞鶴鎮守府を結ぶ道として重視され、大正7年(1918)「道路法」が制定されるまで存続しました。 2 春日野新道と敦賀街道 明治7年(1874)6月、敦賀街道より一足早く南条郡四郎丸(武生市)と同郡河野浦(南越前町)を結ぶ3里14町(約13.5km)の「春日野新道」が竣工しました。 この新道は河野浦に住む北前船の豪商であった右近家(10代目権左衛門)等民間資本を基盤にしてつけられました。 右近権左衛門等は自前の船で河野浦から敦賀港へ物資を輸送するため、南条郡四郎丸(武生市)から春日野村(武生市)を経て河野浦に至る道をつくったものです。 この道は有料道路のハシリといえるもので、駕籠を利用させたり徒歩の通行者からは「通道銭」を徴収しました。 当初は順調に利用されましたが、敦賀街道が開通し車馬の往来が自由になった途端、貨客が激減し道路諸経費の償還計画が狂い経営が苦しくなりました。 明治14年(1881)2月、福井県が誕生しますが、同年10月、春日野新道は民間から県へ管理が移譲されました。 |
旧国道8号 春日トンネル | 春日トンネルの「賛化阜財」の印刻 |
3 敦賀街道と国道8号の改修計画 現在、この道筋には国道8号が通っていますが、かって敦賀街道と呼ばれた旧道ルートの面影を留める箇所が武生〜河野間に辛うじて残されています。 武生方面から県道205号(湯谷王子保停車場線)を西に向かい、中津原トンネルから分岐する林道を上りますと旧道に突き当たります。 未舗装の道を敦賀方面へ1kmほどで進みますと土嚢と看板で閉鎖された春日野トンネルが見えます。これが明治20年(1887)に開通した敦賀道の一部です。 敦賀街道は、大正9年(1920)に道路法が制定されて国道12号に改称され、昭和27年(1951)の「一級国道の路線を指定する政令」により起点を新潟、終点を京都とする国道8号の一部になりました。 この区間は、河野村(南越前町)の具谷・大谷地籍間が冬期には積雪や雪崩で通行が途絶するし、無雪期には地滑りによる崩土で通行止めの原因になり、車の渋滞がしばしば起きました。 しかし、急カーブを除去したり、トンネルや陸橋、スノーセットの建設工事が昭和28年(1952)頃から軌道に乗り始め、一歩一歩、改修されていきました。 とくに河野村(南越前町)大谷地籍は、日本でも有数の断層崖が走るところであり、「甲楽城断層」と呼ばれる急斜面に道路がつけられているため、しばしば崩土する危険な区間でした。 そこで詳しく地質調査が行われ、大谷地区の約2kmあまりの区間に5つのトンネルをつくることになりましたが、 そのためには道路勾配を緩くしなければならず、杉津(敦賀市)付近から新設道路をつくる必要がありました。 |
国道8号 敦賀市赤碕付近 | 国道8号 敦賀市江良付近 |
4 国道8号の改修工事と有料道路の供用開始 昭和30年(1955)に武生トンネルを含む武生市妙法寺〜河野村具谷間が日本道路公団により着工され、昭和33年(1958)に武生有料道路が完成しました。 引き続き、日本道路公団は河野村具谷〜敦賀市杉津間を敦賀有料道路として昭和34年(1959)に着工し、昭和37年(1962)に完成させました。 この両有料区間に挟まれた河野村具谷〜大谷間は、昭和33年(1958)に建設省が直轄事業として着工することになりましたが、次のとおり難工事でした。 大谷地区の用地買収には難しい交換条件が出されました。工事に際して、期間中は落石を防止することは勿論、 工事汚濁水を村に流下しないこと、トンネルの廃土をもって将来全戸が移転できるよう谷間に広場を造成することなどが提案されました。 これらの条件を認めなければ用地買収には応じないというものでしたが、これは大谷集落の位置が道路予定線よりはるか下に位置していたからです。 こうして昭和35年(1960)の第2次道路計画3年目に具谷地区で第1、第2トンネルの工事が着工されましたが、廃土問題でこじれ、また崩土があったりして2日間通行止めになりました。 迂回路がなく延々と車の渋滞が続きました。昭和36年(1961)河野トンネルや桜橋陸橋工事が着工されました。 この陸橋は河野川の上を約20mの高さで全長80mの橋を架けるものでした。 昭和37年(1962)5月10日大谷第1トンネル付近で崩壊事故が発生して3日ばかり通行止めになり、大騒ぎとなりました。 昭和37年(1962)9月大谷第2、第5トンネルが、同年11月には第4トンネルが、それぞれ掘削工事に入りました。 昭和38年(1963)の豪雪では、動けなくなった自動車が道路を塞ぎ、県外から応援を求めたブルトーザーを駆使しても除雪がはかどりませんでした。 同年1月26日に桜橋・大谷間で発生した雪崩では、動けなくなった自動車が巻き込まれるという事故が発生しました。 このように「敦賀街道」の具谷〜大谷区間は、難工事のうえ運転者泣かせの道でしたが、昭和39年(1964)ようやく完成しました。 しかし、この区間は、その後も難所であることに変わりなく、たびたび改修されております。 なお、武生有料道路(起点:武生市春日野町、終点:南条郡河野村、供用:昭和33年(1958)10月27日)及び 敦賀有料道路(起点:南条郡河野村、終点:敦賀市杉津、供用:昭和37年(1962)7月8日)は、 昭和43年(1968)1月20日及び昭和47年(1972)12月27日までに償還が完了し国道8号になりました。
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主な参考文献 越前/若狭歴史街道 上杉 喜寿著 福井みちづくりの歴史 (財)地域環境研究所発行 日本地名大辞典 18福井県 角川書店発行 |
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