このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

牛首道

〜 加越国境を結んだ道 〜

谷トンネル(福井県側)谷峠を望む


1牛首道(うしくびみち)

 現在、福井県勝山市と石川県白山市白峰の間には国道157号が通っていますが、かつては牛首道(大道谷往来)で結ばれていました。

 牛首道は袋田町(勝山市沢町)の北端で勝山街道と分岐し、猿倉(勝山市長山町)、浄土寺、寺尾、暮見、栃神谷、中尾、北六呂師、河合、谷、

五所ヶ原の各村々を通り、爪先上がりの難路が続きました。谷村付近には、今も難路を偲ばせる石畳の旧道が残っております。

 そして加越国境の谷峠を越えて大道谷
(おおみつだに)を下り、白山山麓の牛首村(白峰村)へ続く約7里(28km)の道程でした。



2牛首道という名称

 この道を勝山では「牛首道」と呼び、牛首村では「大道谷往来」と呼んでいました。

 勝山では牛首村(白峰村)へ向かう道だったからで、牛首村では谷峠へ向かう渓谷が大道谷と呼ばれたので、このように呼んだのでしょう。

 また、牛首村の鎮守様は八坂神社で、祭神は牛頭大王
(ごずだいおう)だそうです。この祭神の「牛頭」が、なぜか「牛首」と書かれ、それがいつしか村名になったようです。


谷峠への旧道谷峠への旧道入口



3牛首道沿いの主な地名

(1)谷峠
(福井・石川県境)

 牛首道の加越国境に標高941mの谷峠越えがあり、昔は峠付近に2軒の茶屋と9ヵ所の休場
(やすんば)が設けられ、歩荷(ぼっか)や白山登山者など旅人が一服し身体を休めました。

     
注:歩荷・・荷物を運搬した担夫、牛首では駄賃持ちと呼ばれた。

 昭和24年(1949)、初めて谷峠にトンネルが開通し、難儀な峠越えはなくなりました。

 現在のトンネル(全長1,462m)は昭和46年(1971)に開通し、白峰村(旧牛首村)から金沢まで車で約1時間半、勝山まで約30分の所要時間になりました。



(2)牛首村(白峰村)と白山麓18ヵ村

 牛首村は牛首18ヶ村の中心で、尾添
(おぞう)、荒谷の2ヶ村を除いた16ヶ村は戦国末期、勝山藩領に属した地域です。

 戦国末期、織田信長による加賀・越前一向一揆鎮圧後、越前を任された柴田勝家は一族の

柴田勝安を一向一揆戦で戦死した柴田義宣の養子にして北袋(勝山市)を任せました。

 柴田勝安は野津俣、七山家など北谷や白山麓に立て籠もる一向一揆の残党を平定した功労により、

北袋(勝山市)に加え牛首16ヶ村を任されました。以後、牛首16ヶ村は勝山藩領になりました。

 江戸初期は福井藩領、寛永元年(1624)から勝山藩領となりました。

 しかし、正保元年(1644)幕府領福井藩預りとなり、その後、牛首村、風嵐村と加賀藩領であった尾添村、荒谷村

との間に白山杣取争論が起こり、寛文8年(1668)双方を含む白山麓の18ヶ村は幕府領(天領)になりました。

    
注:白山杣取争論・・杣取権といわれる白山頂上の利用権の争奪。 


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天正7年(1579)加賀牛首16ヶ村は勝山藩領になった


(3)牛首道と七山家

 勝山から牛首道を2里(8km)ほど行ったところは、七山家
(ななやまが)と呼ばれる山村が点在する地域です。

 七山家は中世、加賀側と呼応した一向一揆の拠点の一つで、河合村には一揆に敗れた柴田義宣の墓が残り、谷村には谷城址があります。

 近世、牛首往来が盛んになるにしたがい、ここは旅人や歩荷の休憩地になりました。
 


(4)谷城址と谷村

 戦国末期、織田信長によって越前・加賀一向一揆が平定された後、越前を任された柴田勝家は

天正5年(1577)一向一揆との戦いで戦死した柴田義宣の後、柴田勝安を義宣の養子にし北袋(勝山市)を任せました。

 勝安は、一向一揆の籠もる野津俣や谷城を攻め、粘り強く抵抗する一揆勢を討破り、谷城も陥落しました。



谷城址(伊良神社の境内)谷付近の石畳道(勝山市北谷町谷)

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4白山禅定道と牛首道

 平泉寺馬場からの白山禅定道は、中世までは小原峠、三谷を経て風嵐に下りるのが普通で、白山本道と呼ばれました。

 しかし、谷峠が整備され牛首道の往来が盛んになってくると難儀な白山本道は敬遠され、多くの白山登山者が牛首道経由を選ぶようになりました。



明治22年河合橋架橋谷トンネル入口の「言うない地蔵堂」


5牛首道の改修工事

 明治22年(1889)6月、北谷村(勝山市北谷)に河合橋が架橋されました。この時の橋は幅も狭く馬車が通れる程度でしたが、

それでも北谷と牛首との間は画期的といえるほど便利になりました。

 明治37年(1904)、勝山・河合間に車道が開通し、北谷村河合(勝山市)・牛首村(白峰村)間が日帰りで往復できるようになりました。

 大正13年(1924)、手取川沿いにあった加賀往来の大改修が行われ、金沢・白峰間に車道が開通しました。

 この道路の完備によって、歩荷達も漸減し廃業していきました。昭和24年(1949)谷峠に初めて谷トンネル(旧道)が開通しました。

 昭和46年(1971)11月、国道157号の大改修が行われ小原・東山集落を大迂回する新道が開かれ、同時に全長1,462mの谷トンネル(新道・国道157号)が開通しました。

 つまり、谷峠の下にトンネルが新・旧2本貫通したわけで、新道に平行して右側に旧谷峠道が、左側に昭和24年(1949)開通の谷トンネルへ通じる道が残されました。

 昭和54年(1979)、手取ダムが完成し白山麓の環境が一変しました。ダム建設に付随して国道157号も完成し、険しかった手取峡谷の姿が消えました。



福井・石川県境にある谷トンネル谷峠付近の国道157号

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主な参考文献

越前・若狭歴史街道    上杉 喜寿著
越前・若狭峠のルーツ  上杉 喜寿著
勝山の歴史      勝山市教育委員会編
図説 勝山市史      勝山市発行
加賀・越前と美濃街道 隼田義彦ほか編

日本地名大辞典18福井県 角川書店発行


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