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敦賀市疋田の街道風景(1) | 敦賀市疋田の街道風景(2) |
1 柳ヶ瀬道(福井県敦賀市麻生口〜滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬)
西近江路(七里半越・古北陸道・国道161号)沿いの疋田村(敦賀市疋田)から北東方向に分岐する塩津道(新道野越・国道8号)を進み、
麻生口村(敦賀市麻生口)で南方に向きを変える塩津道と別れ、ここから東方に分岐する道(県道140号)が柳ヶ瀬道の入口です。
つぎに杉箸村(敦賀市杉箸)入口で北方にある池ノ河内村(敦賀市池ノ河内)に通じる分岐道を左に見ながら、
さらに東進した道沿いの刀根村(敦賀市刀根)東端から柳ヶ瀬山(中尾山)を上り、久々坂峠(倉坂峠・刀根坂・刀根越)を越えて
柳ヶ瀬村(伊香郡余呉町柳ヶ瀬)へ下り北国街道(東近江路・国道365号)に合流した道が古来からの柳ヶ瀬道でした。
この道は敦賀を経由し江戸へ向かう間道としてよく利用され、明治11年(1878)明治天皇の北陸巡幸にも使われました。
しかし、明治17年(1884)久々坂峠の約1.3km北方にある県境尾根下を長さ1,352mの
柳ヶ瀬トンネルが貫通して鉄道が通るようになったことから、峠道の往来が急激に減少し、ついに廃道になりました。
この敦賀〜柳ヶ瀬間の鉄道も深雪のうえ1000分の25という急勾配で上り続ける難所だったことから、
昭和32年(1957)敦賀から深坂トンネルを経由して木之本に至る新線が完成し、この新線が北陸本線となりました。
このため、旧線は柳ヶ瀬線と名を変えて支線となり、しばらく存続したものの昭和39年(1964)廃線となりました。
その後、この路線は国鉄バス専用道路となりましたが、今は北陸自動車道がこのルートを利用し、
柳ヶ瀬トンネルは北陸自動車道に挟まれた格好で、昭和62年(1987)4月から県道140号の一部として一般車の通行ができるようになりました。
このトンネルを抜けて余呉町柳ヶ瀬で国道365号に合流するのが、現在の柳ヶ瀬道(県道140号)です。
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| | 柳ヶ瀬トンネル(1) | 柳ヶ瀬トンネル(2) |
2 街道沿いの集落
(1) 刀根(敦賀市刀根)
敦賀市の南東、野坂山地東部の山間盆地に位置した集落で、笙ノ川と刀根川が地内西方で合流しています。
地名の由来は、口碑によると仲哀天皇が角鹿(敦賀)へ行幸したとき、この地の豪族「庄内刀根」が坂道を修復したことから、
その名に由来すると云われ、一説には平安期の官職刀禰が居住していたことに由来するとも云われます。
江戸期、刀根村として越前国敦賀郡に属し、はじめ福井藩領でしたが寛永元年(1624)から小浜藩領となりました。
地内は本村である刀根と枝村の杉箸に分かれ、郷帳類では一村として扱われましたが、庄屋などは別々に置かれ実質は分村していました。
「正保郷帳」による村高は「刀根村・杉箸村共に」とあって田方170石余、畑方31石余の計201石余ありました。
当村は江越国境にある久々坂峠(刀根越・倉坂峠)の峠下集落で、北国街道(東近江路)と古北陸道(西近江路)を結ぶ間道(柳ヶ瀬道)沿いにあり交通の要衝でした。
このため慶長年間(1596〜1614)当村には「女留ノ口番所」が置かれ、この後も女留番所が設置されました。
当村は山間の宿駅で高札場も設置され、享保12年(1727)の「敦賀郷方覚書」には刀根村一村として家数92、人数466、馬43とあります。
また、刀根・杉箸では石灰を産出し、毎年運上として石灰20俵を上納していました。
明治初年に記された「滋賀県物産誌」によれば、刀根村と杉箸村が別々に書上げられ、刀根村の戸数64(農業62、石灰焼2)、人口315、荷車9とあります。
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| | 敦賀市刀根の気比神社 | 久々坂峠付近 |
(2) 柳ヶ瀬(伊香郡余呉町柳ヶ瀬)
滋賀県最北部に位置する余呉町の大字で、余呉川に沿って南北に通じる北国街道(国道365号)沿いに集落があります。
集落の北部には古代から利用された越前刀根村(敦賀市)へ通じる倉坂峠(久々坂峠・刀根坂・刀根越)道が分岐し、
戦国末期に北国街道が通じたことから交通上の要衝となり宿が置かれました。
また、宿の入口北方に元和年間(1615〜1624)彦根藩の柳瀬関所が設置されました。
口碑によれば、この関所は最初、椿坂村(余呉町椿坂)にあったようですが、関守椿井(のち柳瀬)三太夫のとき、当地に移されたといわれます。
貞享4年(1687)この関所は宿の南に移転整備され、敷地約100坪、番人6人が昼夜2人ずつ勤務し、鉄砲5挺、槍5筋など種々の武器や諸道具を備え警備しました。
とくに女子の通行を厳しく取締ったので女改関所とも称されました。
当村の石高は寛永石高帳(1624〜1643)に133石余、元禄8年(1695)の人数は434うち寺社方8とあり、彦根藩領に属して幕末に至りました。
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| | 余呉町柳ヶ瀬の街道風景(1) | 余呉町柳ヶ瀬の街道風景(2) |
3 街道の歴史
(1) 古代、仲哀天皇が行幸された道
敦賀市刀根の口碑によれば、第14代仲哀天皇が角鹿(敦賀)へ行幸した折、当地の豪族「庄内刀根」という
人物が坂道を改修したとの言い伝えがあり、刀根という地名の由来になったといわれます。
これに関し日本書紀は「仲哀天皇2年(西暦193)2月6日、天皇は角鹿(敦賀)に移り、角鹿笥飯宮(つぬげのけひのみや)を造営し、淡路に屯倉(みやけ)を定めた。」とあります。
これから推測し、この峠道は古墳時代より大和(やまと)から琵琶湖東岸を経由して角鹿(敦賀)へ至る道だったと考えられます。
(2) 越前守護朝倉義景が敗走した峠道
元亀元年(1570)6月、近江姉川の合戦以来、織田軍と朝倉・浅井連合軍は度々合戦を繰り返し4年が過ぎました。
そして元亀4年(1573)7月28日、室町幕府が滅亡し、元号は「元亀」から「天正」と改元されますが、その7月上旬、織田信長は浅井長政討伐のため近江へ出陣しました。
これを知った浅井長政は、すぐさま小谷城に立て籠もり同盟関係にあった朝倉義景に援軍を要請しました。
これに対して朝倉義景は一族の朝倉景鏡や配下の魚住景固に出陣を命じますが、度重なる出兵による兵の疲れを理由に拒否されます。
やむなく7月17日、朝倉義景は自ら総大将となって3万の大軍を率い一乗谷を進発、7月19日、敦賀に着陣、しばらく安養寺に滞陣しました。
この間に浅井の属将で山本山の守将であった浅見対馬守、阿閉(あつじ)淡路守、月ヶ瀬の守将らが織田信長方に寝返り、戦況は朝倉・浅井方に不利になってきます。
浅井方からは朝倉方に江北への進発をしきりに促してきましたが、朝倉方は江北へ出撃するかどうかを決めかね、軍議は長引くばかりでした。
しかし、義景は多くの側近が反対するのを押し切って、ついに8月6日、江北の木之本まで進発し、田上山(標高330m)に本陣を構えました。
ところが8月10日、朝倉方の前線基地であった大嶽(おおづく)山城と丁野(ようの)城が信長軍に攻撃され陥落します。
形勢不利となった朝倉本陣は態勢を立て直そうと、一旦、柳ヶ瀬まで退きますが、すでに戦意を失った軍勢は完全に浮き足立ち、我先に敦賀へ敗走を始めたのです。
これを見た信長軍は一気に追撃を開始し、8月14日、刀根坂(久々坂峠)で敗走中の朝倉本隊に追いつき攻め立てました。
こうして刀根坂から疋田までの間に繰り返された凄惨な死闘によって、朝倉本隊2万余の軍兵が戦死し、信長軍の決定的な勝利となりました。
この戦で精兵のほとんどを失った義景は、わずか5,6騎の近臣を従えて、8月15日夕刻、一乗谷へ帰陣し、その後、大野(福井県大野市)へ遁走します。
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| | 伊香郡木ノ本町の田上山山頂付近 | 田上山城跡付近 |
(3) 越前北庄城主柴田勝家の本陣「玄蕃尾城」
天正10年(1582)6月、本能寺の変で織田信長が殺されると、その配下だった柴田勝家と羽柴秀吉の対立が表面化しました。
翌天正11年(1583)4月、江越国境にある柳ヶ瀬山(内中尾山・標高429m)の山頂に越前北庄城主柴田勝家が本陣を築き、
ここを中心に前方の行市山(標高659m)はじめ周辺の山々に配下の武将達が砦を築いて布陣し、羽柴秀吉軍と対峙しました。
しかし、柴田軍は余呉湖畔にある賎ヶ嶽の戦いに敗れ、本陣で戦うことなく刀根坂と栃ノ木峠を越え越前に敗走しました。詳しくは本ページ坂峠の「栃ノ木峠」をご覧下さい。
この玄蕃尾城跡は、当時の姿を今にとどめ現在、国指定史跡として往時を偲ぶ縁になっています。
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| | 玄蕃尾城本丸跡 | 玄蕃尾城本丸北東の櫓台跡 |
(4) 明治天皇が北陸巡幸に利用された峠道
王政復古から10年経過した明治11年(1877)8月、明治天皇は地方民情視察のため北陸・東海道方面を巡幸されました。
当時、まだ福井県は存在せず、越前の嶺北7郡は石川県、越前・若狭の嶺南5郡は滋賀県に属していました。
10月3日金沢の石川県庁にご到着された後、北陸道を南進しながら各地を巡幸され、10月8日今庄宿(福井県南越前町今庄)にご到着されました。
この巡幸に供奉者として右大臣岩倉具視、参議大蔵卿大隈重信、工部卿井上馨、宮内卿徳大路実則ら高官をはじめ
近衛兵14人、騎兵1小隊、巡査344人の総勢798人、それに御馬5頭、乗馬111頭の大部隊が付き従っていました。
また、行幸に際し御使用の鳳輦(ほうれん)は馬2頭立ての幅7尺7寸(2.2m)ありましたから、巡幸される道幅が2間(3.6m)以上必要でした。
そのため天皇が今庄宿に御到着されると鳳輦(馬車)は、今庄宿から北国街道を柳ヶ瀬まで廻送され、
翌日、天皇は板輿(駕籠)に乗られて木ノ芽峠を越え敦賀入りしました。
10月9日午後4時20分頃、行在所に充てられた三井銀行支店(後に敦賀銀行となる)にご到着されました。
翌10月10日早朝、松原の敦賀湊をご覧になられた後、午前8時半、敦賀をご出発されて神楽通りから西近江路を疋田宿へ向かわれました。
疋田宿では、かつて運河として敦賀湊から曳船した水路をご覧になり、午前9時40分頃、中川安右ェ門方で小休止されました。
その後、西近江路を離れて柳ヶ瀬道に入られ、22町(2.4㎞)ばかり離れた刀根村の鈴木孫助方に午前11時半頃ご到着、15分ばかり小休止されました。
ここからの峠道は改修直後の山道であり、昨日来の雨で路面は柔らかく泥濘状態が危惧されました。
また、江越国境にある刀根坂を越えて柳ヶ瀬までは約1里(約4km)ばかりあり、そのうえ坂道の途中には
刀根川の急な処もあり心配されましたが、幸に峠の手前で雨もやんで無事、柳ヶ瀬宿にご到着されました。 |
| | 玄蕃尾城跡から南方、余呉湖方面の遠望 | 玄蕃尾城跡から北方、敦賀湾・福井方面の遠望 |
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(5) 柳ヶ瀬トンネルの開通によって衰退した峠道
敦賀市刀根と伊香郡余呉町柳ヶ瀬との間を一般車が信号機で交互通行している長さ1,253mの柳ヶ瀬トンネルがあります。
このトンネルは、明治13年(1680)長谷川謹介氏の指導によって鉄道トンネルとして着工されました。
当時、最新の技術を投入し日本人だけで掘られた鉄道トンネル第2号として明治17年(1684)完成したわが国最長のトンネルでした。
三角測量を最初に行い、削岩機や空気圧縮機、ダイナマイトを使って掘られましたが、岩質が硬くて湧水も多く工事は難渋しました。
トンネルの開通で鉄道の長浜(滋賀県長浜市)〜金ヶ崎(敦賀市金ヶ崎)間を1日2往復の列車が走り、所要時間2時間5〜10分で結ばれました。
しかし、トンネル内は敦賀側から1000分の25の上り勾配の連続で、蒸気機関車の登坂力の限界に近く、
前後の機関車から出る煤煙と熱気が充満して、しばしば機関士が倒れました。
昭和3年(1928)トンネル内で貨物列車がスリップして立往生、機関士らが窒息死する惨事も発生しました。
昭和31年(1956)には上下75本の列車が走りましたが、輸送力増強と近代化のため翌32年(1957)深坂トンネルが開通し、
この路線は支線(柳ヶ瀬線)になり、さらに昭和39年(1964)5月廃線となって、国鉄バス専用道のトンネルになりました。
昭和62年(1987)4月、県道140号として周壁の石と煉瓦積みの一部をコンクリート巻にして待避所、蛍光灯、信号機を設け一般車の通行も開始されました。
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主な参考文献
角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
角川日本地名大辞典25滋賀県 角川書店
日本歴史地名大系滋賀県の地名 平凡社
越前・若狭歴史街道 上杉喜寿著
福井県史通史編2 中世 福井県
福井県の歴史 県史18 山川出版社
福井県の歴史散歩 山川出版社
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