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鉄幹・晶子の旅



〜米屋旅館〜

中禅寺湖展望台 から中禅寺湖へ。

中禅寺湖で猫柳の花芽がふくらんでいた。


中禅寺湖の湖畔に「米屋旅館」があった。


中禅寺湖畔「米屋旅館」


 大正11年(1922年)10月29日、若山牧水は 『みなかみ紀行』 の後で「米屋旅館」に泊まった。

   中禅寺湖にて

裏山に雪の来ぬると湖岸の百木のもみぢ散りいそぐかも

見はるかす四方の黒木の峰澄みてこの湖岸のもみぢ照るなり

みづうみを囲める四方の山脈の黒木の森は冬さびにけり

下照るや湖辺の道に並木なす百木のもみぢ水にかがよひ

舟うけて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸辺のもみぢ照り匂ふ日を

『山桜の歌』

 「米屋旅館」のホームページに「大正時代には、与謝野晶子、鉄幹夫妻がご宿泊になり、ここで詠まれた歌が当館に残されています。」と書いてあった。

 大正14年(1925年)5月17日、 与謝野晶子夫妻 は米屋旅館に2泊している。 文化学院 の生徒の写生旅行についていったようだ。

午後三時二荒をうつしあますなく広き湖水は憂鬱に落つ

常磐木とから松の斑も稀にして男体の山さびしき五月

『心の遠景』

 昭和7年(1925年)6月11日、与謝野晶子夫妻は米屋旅館に泊まった。

われの船佛の大使の水莊のまへに及べるうす霧を分く

「冬柏亭集」

戦前の米屋旅館①【与謝野晶子ネット提供】


幽邃なる嵐氣に包まれたる 日光中禅寺米屋旅館

戦前の米屋旅館②【与謝野晶子ネット提供】


 自分達夫婦は6月10日に日光に赴き、湯本の南閒旅館に一泊、翌日も中善寺の米屋旅館に一泊し帰ってきた。 山は若葉、杜鵑(ほととぎす)、河鹿の季節であり白嶺と前白嶺には残雪が望まれ、花は石楠、谷桃(やつもり)、あやめ、躑躅(つつじ)、紅色の残櫻のほか、湯本では 艶麗草しら嶺葵 その他の高山植物の花を初めて目にすることを得た。

中禅寺湖と日光白根山


 雨季のため小雨と霧の変化の急なことも、歌を詠む旅行に適していた。南閒旅館の主人夫婦は初面ながらも親切に待遇せられ、米屋旅館の主人も舊識として同じく歓待せられた。

「冬柏」編集後記

「南閒旅館」は日光湯元温泉「南間(なんま)ホテル」こと。

日光湯元温泉「おおるり山荘」


昭和10年(1935年)3月26日、鉄幹は肺炎で亡くなっている。

 昭和12年(1937年)10月27日、晶子は「米屋旅館」に泊まり、翌28日戦場ヶ原から湯滝へ。

湖畔とて落の乾くことおそし我れの心もこれに屋かまし

さざ波が碧瓦の如くかがやきて晴れたる朝の山の湖

『白桜集』 (霜葉二荒山)

 昭和31年(1956年)、米屋旅館は火事で全焼。平成16年(2004年)5月、「米屋旅館」廃業。その建物も取り壊されてしまった。 レストラン「パティオ」 だけが営業している。

 昭和7年(1925年)に与謝野夫妻が宿泊した時、「米屋旅館」の主人に贈られた自筆掛軸も火事で焼失。親戚に贈られた2本の軸だけ残った。


   


身をしばし湖上の船に任せたりゆく方(かた)に山ゆく方(かた)に浪
   寛

われの船佛(ふつ)の大使(たいし)の水荘の前に及べるうす霧を分く
   晶子

晶子自身がつけたルビだそうだ。

解釈&鑑賞は 与謝野晶子ネット をご覧下さい。

 平成15年(2003年)6月19日、日光湯元の老舗旅館「南間ホテル」も自己破産により営業停止。平成16年(2004年)11月10日、「南間ホテル」の跡地に日光湯元温泉 「おおるり山荘」 がオープンした。

日光湯元温泉 へ。

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