このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
鉄幹・晶子の旅
〜米屋旅館〜
中禅寺湖展望台
から中禅寺湖へ。
中禅寺湖で猫柳の花芽がふくらんでいた。
中禅寺湖の湖畔に「米屋旅館」があった。
中禅寺湖畔「米屋旅館」
大正11年(1922年)10月29日、若山牧水は
『みなかみ紀行』
の後で「米屋旅館」に泊まった。
中禅寺湖にて
裏山に雪の来ぬると湖岸の百木のもみぢ散りいそぐかも
見はるかす四方の黒木の峰澄みてこの湖岸のもみぢ照るなり
みづうみを囲める四方の山脈の黒木の森は冬さびにけり
下照るや湖辺の道に並木なす百木のもみぢ水にかがよひ
舟うけて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸辺のもみぢ照り匂ふ日を
『山桜の歌』
「米屋旅館」のホームページに「大正時代には、与謝野晶子、鉄幹夫妻がご宿泊になり、ここで詠まれた歌が当館に残されています。」と書いてあった。
大正14年(1925年)5月17日、
与謝野晶子夫妻
は米屋旅館に2泊している。
文化学院
の生徒の写生旅行についていったようだ。
午後三時二荒をうつしあますなく広き湖水は憂鬱に落つ
常磐木とから松の斑も稀にして男体の山さびしき五月
『心の遠景』
昭和7年(1925年)6月11日、与謝野晶子夫妻は米屋旅館に泊まった。
われの船佛の大使の水莊のまへに及べるうす霧を分く
「冬柏亭集」
戦前の米屋旅館①【与謝野晶子ネット提供】
幽邃なる嵐氣に包まれたる 日光中禅寺米屋旅館
戦前の米屋旅館②【与謝野晶子ネット提供】
自分達夫婦は6月10日に日光に赴き、湯本の南閒旅館に一泊、翌日も中善寺の米屋旅館に一泊し帰ってきた。 山は若葉、杜鵑
(ほととぎす)
、河鹿の季節であり白嶺と前白嶺には残雪が望まれ、花は石楠、谷桃
(やつもり)
、あやめ、躑躅
(つつじ)
、紅色の残櫻のほか、湯本では
艶麗草
、
しら嶺葵
その他の高山植物の花を初めて目にすることを得た。
中禅寺湖と日光白根山
雨季のため小雨と霧の変化の急なことも、歌を詠む旅行に適していた。南閒旅館の主人夫婦は初面ながらも親切に待遇せられ、米屋旅館の主人も舊識として同じく歓待せられた。
「冬柏」編集後記
「南閒旅館」は日光湯元温泉「南間
(なんま)
ホテル」こと。
日光湯元温泉「おおるり山荘」
昭和10年(1935年)3月26日、鉄幹は肺炎で亡くなっている。
昭和12年(1937年)10月27日、晶子は「米屋旅館」に泊まり、翌28日戦場ヶ原から湯滝へ。
湖畔とて落の乾くことおそし我れの心もこれに屋かまし
さざ波が碧瓦の如くかがやきて晴れたる朝の山の湖
『白桜集』
(霜葉二荒山)
昭和31年(1956年)、米屋旅館は火事で全焼。平成16年(2004年)5月、「米屋旅館」廃業。その建物も取り壊されてしまった。
レストラン「パティオ」
だけが営業している。
昭和7年(1925年)に与謝野夫妻が宿泊した時、「米屋旅館」の主人に贈られた自筆掛軸も火事で焼失。親戚に贈られた2本の軸だけ残った。
身をしばし湖上の船に任せたりゆく方
(かた)
に山ゆく方
(かた)
に浪
寛
われの船佛
(ふつ)
の大使
(たいし)
の水荘の前に及べるうす霧を分く
晶子
晶子自身がつけたルビだそうだ。
解釈&鑑賞は
与謝野晶子ネット
をご覧下さい。
平成15年(2003年)6月19日、日光湯元の老舗旅館「南間ホテル」も自己破産により営業停止。平成16年(2004年)11月10日、「南間ホテル」の跡地に日光湯元温泉
「おおるり山荘」
がオープンした。
日光湯元温泉
へ。
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