このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2005年

文化学院〜与謝野晶子〜
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 JR総武線お茶の水駅から明大通りを下り、 明治大学 の手前でとちの木通りに入る。


蔦に覆われた建物があった。


文化学院である。


大正10年(1921年)、西村伊作が文化学院創立。

与謝野鉄幹・晶子 夫妻も創立に貢献し、教鞭をとった。

 与謝野鉄幹・晶子夫妻は大正4年から大正12年の関東大震災まで近くの 逓信病院 辺りに住んでいた。

大正12年(1923年9月1日、 関東大震災 で文化学院焼失。

休みなく地震(なゐ)して秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の町

きはだちて真白きことの哀れなりわが学院の焼跡の灰

『サンデー毎日』(大正12年10月7日)

与謝野晶子 が文化学院に預けておいた『新新訳源氏物語』の原稿も焼失。

十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰

きはだちて真白きことの哀れなりわが学院の焼跡の灰

『婦人世界』(大正12年11月号)

関東大震災の歌は『瑠璃光』に多数収録されている。

 大正14(1925年)3月17日、与謝野晶子夫妻は文化学院の生徒の写生旅行について中禅寺湖に遊び、 米屋旅館 に宿泊している。

 大正14年(1925年)に大学部ができると、 芥川龍之介 も講義に訪れている。

 昭和5年(1930年)に菊池寛が文学部長になってからは、 川端康成 、横光利一、小林秀雄等が創作と文芸評論を担当した。

 昭和10年(1935年)3月26日、与謝野鉄幹死去。28日、文化学院において告別式挙行。告別式で弔辞を読んだのが 北原白秋 である。多磨墓地に埋葬。

 与謝野寛先生に対する大正以来の歌壇の態度は、今日に於てその過誤の多大と非礼とを是正し謝罪せねば許さるべきではない。私は弔い合戦に立つ気で起つ。思うさえ武者ぶるいを感ずる。

昭和10年(1935年)6月、白秋は「多磨短歌会」を創り、機関誌『多磨』を創刊。

文化学院は 戦災 に遭わなかった。

土曜日で学校はお休みだったが、中庭で「離婚弁護士」の撮影をしていた。


私はテレビドラマを見ないからよく分からないが、瀬戸朝香である。


翌週の火曜日、私は初めて「離婚弁護士」を見た。

 平成18年(2006年)4月、校舎も老朽化の為、取り壊されることになった。

 平成20年(2008年)2月、地上14階地下2階の新校舎が完成。

 平成30年(2018年)3月、了徳寺学園と統合し、文化学院閉校。

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