このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

与謝野晶子の歌碑


永井宿

  法師温泉 から県道261号法師吹路線で国道17号(三国街道)に戻る途中に「永井宿資料館」の案内があった。


 左折して細い坂道を上ると、左に「永井宿資料館」、右に 若山牧水の歌碑 があったようだが、坂道の途中で車を停めるわけにはいかない。

そのまま坂道を上ると、永井宿の本陣趾があった。


永井宿

 寛治(1087−1094)の頃、奥州の阿部の家臣長井左門がこの池を開発した縁でその苗字をとり長井村としたのが縁となり、謙信が関東に兵を進め三国峠から山道を開き、更に元禄2年徳川の代となり、長井宿は米問屋場に指定され、越後米の取引場として隆盛した。

 万延元年(1860年)永井宿は火災により焼失し、現在の家屋はその後に建築されたものであるが、街道は昔の面影をとどめています。

本陣趾の碑は与謝野晶子の歌碑である。

訪ねたる永井本陣戸を開き明かりを呼べば通ふ秋風

 昭和6年(1931年)9月4日、与謝野晶子は法師温泉に3泊したが、その時詠んだ歌であろう。

 昭和14年(1939年)11月、与謝野晶子は再び永井宿を訪れている。

變れるは我れのみ今も綿掻かん永井の宿の脇の本陣

『白桜集』

谷川温泉 へ。

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