このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
与謝野晶子の歌碑
立待岬
「ラビスタ函館ベイ」
から市電の終点谷地頭駅へ。
箱館ハイカラ號
立待岬に向かう。
立待岬
この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ、すなわちここで魚を立って待つ)に因むという。
18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。
また、第二次世界大戦は、要塞地帯法により市民の立ち入りは禁じられていた。
現在は、津軽海峡を望む景勝地として、観光客が訪れている。
近くには
石川啄木一族の墓
や与謝野寛・晶子の歌碑もある。
函館市
立待岬の海
明治40年(1907年)4月27日、河東碧梧桐は立待岬に行ってみた。
柳がほのかに緑を含んでおるのを、ことし始めて見た木の芽じゃと思うと、立待崎に行って見たら、途中に接骨木
(にわとこ)
のすでに緑の葉を露出しておるのがあった。一所に行った牧童が菫の花を摘んだ。
『三千里』
与謝野寛・晶子の歌碑
浜菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土
寛
啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと
晶子
昭和31年(1956年)、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年、同会は棒二森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を建立した。
晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。
また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。
函館市
後日
、歌碑の部分を拡大して撮ってみた。
昭和6年(1931年)6月6日、
与謝野寛・晶子
は啄木の墓参に訪れた。
啄木の眠るところの北海のたちまち崎の波のおとなひ
いにしへは啄木の泣き末の世にわれの涙の沁む岬かな
海越えて南部の山の見ゆるこそ哀れなりけれ啄木の塚
はまなすの岬に咲かん日も思ふれ啄木の碑のかたはらにして
啄木よ岬の菊の根を得たり生きたるものは花も咲かまし
「北海遊草」
翌7日、夫妻は
花巻温泉
へ。
函館公園
へ。
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