このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石川啄木ゆかりの地


函館公園〜石川啄木の歌碑〜

立待岬 から青柳町の函館公園へ。


明治12年(1879年)、函館公園開園。

近代日本における都市公園を代表するもののひとつ。

明治40年(1907年)4月27日、河東碧梧桐は函館公園を訪れた。

 公園に行って見ると、梅の蕾より桜の蕾の方が大きくふくれておる。東京ならもう四五日待たぬように思われるが、これでまだ来月の十日頃であろうという。


函館公園に石川啄木の歌碑があった。


函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花

『一握の砂』 の歌である。

 この歌碑は、啄木の青春のあしあと、青柳町時代を記念して昭和28年(1953年)4月に建立された。

 全国に数多く存在する啄木歌碑の中でも一番美しいできばえといわれるこの歌碑は、啄木の自筆を集字拡大したものであり、エキゾチックな風情とロマンをもつ街・函館をうたった歌として、広く市民に愛誦されている。

 薄幸の詩人石川啄木が函館に滞在したのは、明治40年(1907年)5月から9月にかけての僅か132日間にすぎない。この間、文芸同人苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の諸友に囲まれ、文学を論じ人生を語り、心安らぎつつも自らの若さと夢を思い悲しんだ。

公園通りを行くと、「石川啄木居住地跡」があった。


石川啄木居住地跡

「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」

「わがあとを追い来て 知れる人もなき 辺土に住し母と妻かな」

 薄幸の詩人石川啄木が、家族を迎え、住んだ青柳町の借家跡は、この付近の路地である。岩手県渋民村(現玉山村)で辛酸の生活を味わった啄木は、明治40年5月初め、一家離散を余儀なくされた。

 啄木が新天地を求め、妻節子と長女京子を盛岡の実家堀合家に預け、母カツは知人宅に託して妹光子だけを伴い、津軽海峡を渡り函館に着いたのは5月5日のことである。(妹はそのまま小樽の義兄のもとへ向かった。)

 啄木を温かく迎え入れたのは、函館の文学愛好家グループ「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」の同人達であった。

 啄木の日記に「四十頁の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌」と記された文芸誌『紅苜蓿(べにまごやし)』は、のちに啄木が主筆となり、一切の編集責任をまかせれることとなるが、その『紅苜蓿』は、この地より左手の青柳小学校の上辺にあり、一時啄木はそこに仮住まいをしていた。

 7月7日、啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え、新家庭づくりにかかるが、不幸にも8月25日夜、大火が発生し、勤めていた弥生尋常小学校や函館日日新聞社が焼けてしまった。

 職場を失った啄木は、9月13日新たな職を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4箇月余りで終わりを告げたのである。

函館市

 雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』は四十頁の小雑誌なれども、北海における唯一の真面目なる文芸雑誌なり。かつて故山にありし時、松岡君の手紙をえて遙かに援助を諾し、一、二回原稿を送れることありき。今予きたってこの函館に足を留むるや、大島氏の懇請やみ難くして、予ついにその主筆となりぬ。

 七月七日節子と京子は玄海丸にのりてきたれり。この日青柳町十八番地石館借家のラノ四号に新居を構え、友人八名の助力によりて、ともかく家らしく取り片づけたり。予はまた一家の主人となれり。

 (大火)八月二十五日
 この夜十時半東川町に火を失し、おりからの猛しき山背(やませ)の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二をやけり。学校も新聞社もみな焼けぬ。友並木君の家もまた焼けぬ。予が家も危うかりしが、ようやくにしてまぬかれたり。吉野、岩崎二君もまたのがれぬ。

『啄木日記』

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