〜日露友好の碑〜
函館公園
から公園通りを行くと、高田屋通りに出る。
高田屋通りの宝来町グリーンベルトに高田屋嘉兵衛銅像があった。
高田屋嘉兵衛銅像をズームアップ。
高田屋嘉兵衛銅像
この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33年(1958年)に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。
嘉兵衛は明和6年(1769年)に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元年(1818年)に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。
さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。
函館市
日露友好の碑
1811年、ロシア軍艦ディアナ号の艦長V.M.ゴローニンが千島列島を測量中、徳川幕府役人に捕らえられて、松前に監禁されたゴローニン事件。
翌年、高田屋嘉兵衛がクナシリ沖にてロシア船に拿捕され、カムチャッカに連行された。しかし高田屋嘉兵衛は逆境を好機ととらえ、副艦長リコルドとの友情を深め、言葉の壁を乗り越え両国和平を説き、1813年ゴローニン釈放を実現させ、日露武力衝突の危機より日本を救った。
ゴローニンは帰国後『日本幽閉記』を著し、嘉兵衛を評し「この世で最もすばらしい尊敬すべき人物」とたたえた。
ゴローニンは松前へ護送される前、ここ函館市宝泉町の地にあった牢獄に幽閉されていた。
1999年、ロシアよりゴローニン、リコルドの子孫が来日され、高田屋嘉兵衛七代目を交え事件から186年後の子孫を通じての再会をこの地にて果たしました。ここに3人の深い友情と邂逅を記念し、21世紀を前に国際親善を深く願い、日露友好の永遠のシンボルとしてこの碑を建立した。
文化8年(1811年)7月2日、
松窓乙二
はクナシリから箱館に護送されたロシア人ゴロウニンを見ている。
ヲロシヤの人六人、ラソウの人ひとり、くなしりといふに漂着せしを、はこだて
まで、陸路(くがぢ)三百里の間をめしのぼされぬ。背の高き事皆六尺有餘にして、長途のつかれにや、汐風に吹きからさるゝ濱松のなみ立てるが如く、野口より歩行よりして市井入來るを見る。
かまきりの手あしよ髪は古蓬
高田屋屋敷跡
箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。
明和6年(1769年)、兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8年(1796年)、28歳のとき箱館に渡り、以来文政元年(1818年)郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。
嘉兵衛は国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。
高田屋の全盛は、寛政13年(1801年)に嘉兵衛のあとを嗣いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が幕府の許可を得て、この地に5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が於かれていた。
市内にはほかに高田屋嘉兵衛像(宝来町)や大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の
称名寺
には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。
函館市
函館市文学館
へ。
私の旅日記
〜
2008年
〜に戻る