〜高田屋嘉兵衛顕彰碑〜
函館市文学館
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函館市船見町に称名寺という寺がある。
護念山称名寺
浄土宗
の寺である。
称名寺は、正保元年(1644年)円龍という僧が亀田村(現市内八幡町辺り)に阿弥陀庵を建てたのが始まりといわれていることから、市内では高龍寺に次いで古い寺院である。
明暦元年(1655年)阿弥陀堂と称したが、元禄3年(1690年)松前の浄土宗光善寺の末寺として寺号公称され称名寺となり、宝暦5年(1755年)箱館の富岡町(現弥生町)に移転した。
明治12年(1879年)の大火で本堂を焼失し、同14年(1881年)にこの地に移転した。その後、幾度か大火のため建物を焼失したが、昭和4年(1929年)現在の鉄筋コンクリート寺院が完成した。
境内には河野政通の供養碑をはじめ、高田屋嘉兵衛の顕彰碑、土方歳三と新撰組隊士の供養碑があるほか、北海道最古の石碑として有名な「貞治の碑」[貞治6年2月(1367年)の銘がある板碑で北海道指定有形文化財]が保存されている。
また墓地には箱館発展のもとを築いた高田屋一族の墓、新島襄の海外渡航を助けたり日本最初の気象観測所を開設した福士成富など、著名な人の墓がある。
函館市
土方歳三と新撰組隊士の供養碑
土方歳三(新撰組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、鶴岡町、栄国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市
金剛寺
の過去帳には、函館称名寺に供養碑を建てた、と記している。
称名寺は、明治期の大火で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年有志が現在の碑を建立した。他の4名は新撰組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。
観音堂
観音堂由来
称名寺には江戸時代から観音堂があり、市民の信仰を集めていましたが、当時の場所は弥生小学校の所で、明治12年大火で焼け、ここに移りました。そして観音堂が再建されたのは昭和になってからです。 明治40年に十八世朗誉上人が本州より藤原時代前期国宝級の十一面観音像を請来して庫裏内仏間に奉祀し、翌年山崎作蔵・岩船峰次郎・亀井喜一郎(勝一郎の父)その他有志が西国三十三観音小像も安置しました。 昭和9年未曾有の大火には類焼を免れましたが、この時奇跡がありました。北洋漁業家の八木実通(亀三郎)が大森浜に置いた木造新造船が、周囲全焼の中で不思議にも焼けなかったのです。八木は家に室町時代秀作の聖観音像を安置信仰してしており、その霊験と感謝して、称名寺に観音像を再建するよう遺言して逝去し、その遺志によりこの堂が昭和12年に完成しました。 十一面観音は奥院秘仏として、聖観音は御前立として、三十三観音は両側尊像として祀られており、毎月18日午後2時から法要があります。諸難消滅・受験合格などの功徳ありとして尊信されております。
高田屋嘉兵衛顕彰碑
高田屋嘉兵衛(1769−1827)は淡路の人。28歳のとき渡来し、50で皈国するまで、箱を根拠地として北海の天地に活躍した。初めてエトロフ島への海路を開き、17の漁場を作って北海漁業の先駆をなし、又箱館に大店舗を構え、奉行所松前移轉後もエトロフ、幌泉、根室場所の漁獲物の集散と仕込物資の調達をになって、箱館の繁栄を築き、更にゴロウイン拘囚のとき、沈着剛胆よく日露の側を奔走して無事釈放につとめ、永く露国感謝せられた。
今年嘉兵衛の百四回忌に当り、高田屋まつりを行い、この碑を建ててその功績を顕彰する。