このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
方角石
〜芭蕉の句碑〜
にかほ市平沢画書面のTDK歴史館の西側に小高い丘がある。
道路側から丘を登ると、左手に芭蕉の句碑があった。
疑ふなうしほの花もうらの春
出典は
『いつを昔』
(其角編)。
「
二見の図を拝み侍りて
」と前書きがある。
元禄2年(1689年)春、芭蕉46歳の句。
嘉永3年(1850年)10月、仁賀保町平沢(現にかほ市平沢)の俳人水月らが平沢海岸の金毘羅山に建立。記念集
『潮のはな』
(等哉編)。
嘉永5年(1852)閏2月23日、吉田松陰は平沢を通り本庄へ。
木浦を經、舟にて一川を濟る。此の間稍海濱を離るれども、平澤に至り又海濱に出で、平沙を行く。本庄に宿す。
『東北遊日記』
明治26年(1893年)11月19日、芭蕉翁二百年祭に現在地の丁刃森に補修移転。
建武碑
「建武重二暦丁丑」(1338年)の年号が刻字されており、重二暦とは4年のことである。
丁刃丸の供養塔との伝承がある。
にかほ市教育委員会
丁刃丸は由利政春の嫡子。
正中元(1324)年、鳥海弥三郎に滅ぼされた。
明治40年(1907年)8月4日、河東碧梧桐は
象潟
に向かう途中で「丁刃丸の供養塔」を見ている。
途中丁刃の森という道端の丘の上に上った。昔出戸の後ろの山に由利某という豪族が住んでおって、近郷に威を張っておったが、ついに他の某という豪族に攻め落された。由利某の遺子は即ち丁刃丸というて、時に十一歳であった。乳母と共に落ち延びて、ここまで来た時、追手がかかった。丁刃丸は追手の二人を斬って後、自刃したという口碑が残っておる。その後年を経て丁刃丸のために碑を立てたというその碑も、風雨にさらされて文字のあとも読み難いものになっておる。大菩提年七月というような字が切れ切れに見える。
『三千里』
方角石
自然石に方位を示す十二支及び東西南北を刻んでいる。この地域の海事資料として貴重である。
にかほ市教育委員会
ともににかほ市指定史跡である。
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