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私の旅日記
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2009年
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千秋公園
〜牧水・旅人父子歌碑〜
秋田市の広小路は
日本の道100選
。
あいにく雨模様である。
蓮の花が咲いていた。
広小路の北側が千秋公園。
久保田城跡である。
久保田城は
日本100名城
のひとつ。
嘉永5年(1852年)閏2月24日、吉田松陰は秋田を訪れた。
久保田に宿す。是れ佐竹左京大夫二十萬石の都城なり。
『東北遊日記』
明治36年(1903年)、
田山花袋
は千秋公園を訪れている。
秋田に入れば、雨やゝ晴る。旅亭小林といへるに投じ、雨に濡れたる衣を改め、車を命じて公園に赴く。公園は旧城趾の本丸にありて、丘陵の上には秋田神社及び招魂社あり。其の西北に面するところよりは、遙かに秋田の市街より日本海に面せる砂山の連綿たるを望み、怒涛のどうとうとしてさながら地を震ふが如くなるを聞く。雄物川は南より来りて溶々として海に入る、また、一大河の趣を備へたり。
「羽後の海岸」
明治40年(1907年)7月22日、河東碧梧桐は千秋公園を訪れている。
秋田の公園も旧城址である。小高い丘に大樹欝蒼としておって、規模見るべきものがある。公園とするについて多くの人工は加えられたけれども、なお旧面目を損なわぬ天然の風致に富む。御物川の一端と勝平山を隔てて海を望む眺望のやや狭いのを遺憾とする。
弘前公園
の天然の趣味をもって勝るものと、
盛岡公園
の人工を加え過ぎた多少の俗気を帯ぶものとに比較すると、この千秋園はその中間に位すともいうべきである。
『三千里』
牧水・旅人父子歌碑
があった。
鶸めじろ山雀つばめなきしきり
さくらはいまだひらかざるなり 牧水
旅さなか秋田にやどりし父のうた
ふかきゑにしに今日きざまれぬ 旅人
全国で198番目の歌碑である。
若山牧水
(宮崎県東郷町出身)は、旅と酒をこよなく愛した漂泊の歌人である。
当然、酒のくに・秋田にも大正5、6年の2回、足を運ばれ、数首を詠まれている。
この酒の取り持つ縁で平成7年10月、秋田ライオンズクラブの篤志によって「千秋公園での一首」が歌碑となった。
さらに平成11年10月16日、秋田市制施行110周年記念事業の1つとして、長男旅人の1首を加えた父子碑が実現した。
父子の大らかで平明暢達な歌風が、いつまでも人びとに愛されることを希う。
大正5年(1916年)3月14日、牧水は東京を出て、4月末まで東北地方を旅行。
秋田市千秋公園
鶸繍眼児燕山雀啼きしきり桜はいまだ開かざるなり
曇さびしいま七日たたば咲かむとふ桜木立の蔭を行き行くに
『朝の歌』
大正6年(1917年)8月4日、牧水は秋田に着き、翌5日秋田県下の歌人大会に出席。
あのまゝこみ續けて汽車四日夕方六時當市着、五日大會、盛會、本日これより
酒田
に向ふ、元氣旺盛、
八月六日午前十一時 牧 水
(若山喜志子宛繪葉書)
久保田城表門
木造2階建て瓦葺きの櫓門。
平成13年(2001年)、再建。
昭和21年(1946年)9月22日、
高浜虚子
は『ホトトギス』六百号記念秋田大会で千秋公園を訪れている。
柳散り蓮破れお濠尚存す
九月二十二日 ホトトギス六百號記念秋田大會。千秋公園二の丸松
下亭。高木宅滯在。
『六百五十句時代』
御隅櫓
平成元年(1989年)、復元。
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