このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

鰺ヶ沢〜「日蔭塚」〜
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弘前から五能線で鰺ヶ沢へ。

車窓から見る岩木山


鰺ヶ沢町舞戸町に「日蔭塚」があるというので、探してみることにした。

 岩谷村の旧街道(営林署の方への道)を行って右に折れ急坂を登り畑の中を行った所に、老大松をはさんで句碑が二基建っている。

『鯵ヶ沢地方の石塔碑』

 中村川沿いに県道3号弘前岳鰺ケ沢線(鰺ヶ沢街道)を行き、右の旧街道に入る。

 「急坂」があったが、途中までしか道はない。「日蔭塚」の標柱があった道を登っていくと、畑に出たが、「老大松」は見当たらない。右往左往していると、畑仕事に来たと思われる老人に出会った。老人に尋ねると、それ程遠くはないからと、案内してくれた。遠くはないが、藪の中を掻き分けながら、やっとたどり着いた。

日蔭塚


蝶の飛婦はか梨野中の日蔭可南

裏面に「日蔭塚」とある。本来はこちらが表だと思うのだが。

出典は 『笈日記』 (尾張部)。

貞亨2年(1685年)、『野ざらし紀行』の旅の途中、鳴海付近で詠まれた句。

天明3年(1783年)4月、舞戸の俳人保村晩杏らによって建立。

晩杏は備前屋保村善右衛門で、造酒業等を営んだ。

寛政7年(1795年)7月24日、没。

  『諸国翁墳記』 に「日陰塚 奥津軽在日向薹鰺ヶ沢并前戸村連 加州高松 甘夢 建立 蝶の飛はかり野中の日かけかな 翁」とある。

津軽では深浦町宝泉寺の 千鳥塚 に次いで古い芭蕉の句碑である。

 寛政9年(1797年)、 菅江真澄 は深浦湊で正月を迎え、5月7日、鰺ヶ沢町大字七ツ石町の雀部に宿をとった。10日、「日蔭塚」を見ている。

(無)量庵をゆんでになゝつ石神をめてに、薬師の森ををちかたに見て、清き岡にのぼれば「蝶の飛ぶ斗(ばかり)野中の日かげかな」といふばせをの翁の句をいしぶみにかいて近きころたてり

『津軽のをち』

 下を流れる中村川や、青海原に権現が崎、大島、小島、十三の崎、南西には岩木山が眺望できたそうだが、今は見えない。

「日蔭塚」の左に保村晩杏句碑がある。

草はつか蝮旡(※「虫」+「原」)かくさぬ野中かな

鰺ヶ沢町指定文化財

有形文化財 保村晩杏句碑

備前屋保村晩杏の句碑

 草はつか蝮(※「虫」+「原」)(なつこ、あるいはいもりか)かくさぬ野中かなの句を刻んだこの句碑は寛政7年(1795年)7月24日、晩杏の死を悼んで、舞戸の人々が建てたものである。晩杏の句は「合浦明玉集」等にあり、鰺ヶ沢誹諧史上忘れてはならない人で、墓は高沢寺にあり、戒名は晩杏徹窓居士である。

鰺ヶ沢町教育委員会

菅江真澄も保村晩杏句碑のことは書いていない。

道なき道を下って行くと、旧街道の「急坂」に出た。

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