このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芥川龍之介ゆかりの地

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『蜜柑』の碑

横須賀市吉倉町に吉倉公園がある。


吉倉公園に『蜜柑』の碑があった。


 或曇つた冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。 (中略)

 するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思うと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつている蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つてきた。私は思わず息を呑んだ。そうして刹那にいっさいを了解した。

碑のすぐ後ろをJR横須賀線の電車が走る。


芥川龍之介の文学碑

 龍之介は、明治25年3月1日、東京市京橋区 入船町 (現、東京都中央区入船町)に父折原敬三、母ふくの長男として生まれ、辰年辰月辰日辰時の生まれにちなみ龍之介と命名された。

 実家の事情で幼くして入籍した龍之介の養家は 本所 (現、墨田区両国)にあった。このことは、「遺された江戸」の面影をとどめる土地柄を通して、彼の個性成長に見逃せぬ要因となっている。彼はこの地を深く愛惜していたにもかかわらず、〝西洋〟との出会いは彼を故郷から脱出させることになる。彼自身の言葉によれば、「中流下層階級」からの脱出を「文学」に賭けたわけである。

 『蜜柑』は、彼が横須賀の海軍機関学校教官時代、鎌倉の下宿への帰路、横須賀線内でたまたま出会った出来事を題材としている。横須賀駅を出た汽車の中で、2・3等車の区別もわからぬ娘が、自分を見送るため待ちかまえていた弟たちに、窓から蜜柑を投げ与えその労に報いた姿を見て、最初にいだいた不快感から一転明るい感動を覚えたことを作品化したものである。

 彼は機関学校時代の一時期、市内汐入580・尾鷲梅吉方(現、汐入町3丁目1番地)に下宿していたが、塚本文との結婚で再び鎌倉に移った。機関学校での生活は、時間的拘束や生徒の気風になじめず、彼のいわゆる「不愉快な二重生活」であったようだが、そのためか週末はほとんど 田端 の自宅で過ごしていた時期もあった。だがそうした感情とは別に、彼は授業に対してはたいへん熱意があり、内容もおもしろく有益なものであったと当時の教え子が述懐している。

 昭和2年(1927年)7月24日、龍之介は自ら杯を仰いで一命を絶った。享年35歳であった。

横須賀市

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