このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
幕末・維新ゆかりの地
池田屋騒動之址
京都市中京区三条通河原町東入中島町に「
旅籠茶屋
池田屋
はなの舞」がある。
「
維新史蹟
池田屋騒動之址」である。
歴史を愛し
名節を重んずる者は、
暫く此処に歩みを止めよ
此処は「池田屋騒動」の跡地也
池田屋騒動址
元治元年(1864年)旧暦6月5日「祇園祭宵々山」、四条小橋の古高俊太郎を捕らえ厳しく取り調べた結果、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は、三条小橋西詰北側の旅篭「池田屋」で密議中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約20名を、近藤勇率いる新選組10名で襲撃し、多くの死傷者を出しました。この事件で倒幕が1年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。一方、新選組はこの事件の手柄を機に、一躍名をあげました。
文久3年(1863年)2月早朝、浪士組(後に新選組)は東海道五十三次の終点であるここ三条大橋、小橋を渡り、池田屋の前を通り壬生屯所に向かっていた。まさか、その1年3ヶ月後にそこで死闘が繰り広げられるなど、誰も予想していなかったことでしょう。
三条小橋商店街振興組合
池田屋騒動顛末記
文久3年(1863年)嵐のように吹き荒れた尊攘派の倒幕運動も沈静化の兆しを見せ始め、幕府は市中の治安回復に向け、なお一層の取締りを行っていた。その先鋒を努めたのが、京都守護職直属の新選組でした。
元治元年(1864年)6月5日(祇園祭宵々宮 現7月15日)早朝、新選組は、かねてより探索していた、四条小橋西で薪炭商を営む桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕えた。実は古高は、倒幕派の近江郷士で土蔵から武器や具足が発見された。古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取り調べた結果、御所を焼打ちし守護職の松平容保を襲う計画が発覚する。近藤は、直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、夜五つ刻(9時頃)に祇園会所で会津藩兵と待ち合わせる。しかし、会津藩は約束の五つになっても来ない。痺れを切らした新選組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと近藤隊は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと二手に別れて潜伏場所の茶屋、商家、旅篭等を御用改めして行った。
一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、新選組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべしと主張し潜伏中の倒幕派に、三条小橋西の旅篭「池田屋」に集合するよう回状が送られ、長州藩士桂小五郎も池田屋に来たが早く来すぎて、池田屋裏の対州藩邸に寄っていたので難を逃れたという。
近藤隊が三条小橋付近についたのが10時頃、1軒の宿屋「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き、10名のうち、6名で表口、裏口をかため、近藤、沖田、永倉、藤堂の4名で屋内へ。近藤は、宿の者に「御用改め」であると告げると主人池田屋惣兵衛が慌てて2階に駆け上がり、後を追って近藤が2階に上がると、そこには集会中の諸藩の倒幕派20数名がいた。沖田が立ち向かってきた男を斬り、すぐに乱闘になった。屋内で闘う者、2階から外に飛び降りる者、階段を駆け下りる者、これを隊士が迎え撃つ。途中から土方隊らが加わった。闘いは3時間ほど続き、近藤隊からは1名死亡、藤堂、永倉が負傷し、倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他6名が斬死した。一方、予定時間を大幅に遅れて会津藩兵500名が到着したころには、すでに戦いは終わっていました。この事件で倒幕が1年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。一方、この事件によって新選組の勇名は世に轟くことになったのです。
「佐久間象山・大村益二郎遭難之碑」
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