このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石田波郷



『江東歳時記』を歩く

深川不動尊で

前髪にちらつく雪や初不動

東京メトロ東西線門前仲町を下りると、深川不動尊がある。


深川不動尊


関東三十六不動霊場 第20番札所である。

深川不動尊の後ろに首都高9号深川線が見える。

由来

 深川不動尊は真言宗 で、 成田山不動堂新勝寺 の出張所として明治11年(1878年)、当地に遷座され、同14年、堂宇が建立されました。

 元禄(1688〜1703)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703年)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。

真言宗智山派 の寺である。

深川不動尊と富岡八幡宮の区別がつかなかったが、これで分かった。

 昭和33年(1958年)1月28日、石田波郷は雪がちらつく深川不動尊の初不動に出かけていった。

正月の末の寒さや初不動  万太郎

 28日深川富岡町成田不動の初不動は朝から雪もよいの寒空だったが、ひるまえにはとうとう雪がちらつきはじめた。雪とみるとじっとしておられない性分だから、すぐ灰色の町へとびだした。

 元禄16年(1703)成田山不動がはじめて深川富岡八幡境内へ出開帳して以来、明治になると出張所の堂宇が建立された。戦災の猛火をまぬかれるすべもなかったが、26年には再建した。

初不動ばかの剥身を土産かな  苫舎

日の出見し須崎の戻り初不動  三允

などの句は、大正から昭和のはじめまでは通用した深川らしい情緒をあらわしているが、もちろん今日では洲崎も売春防止法でだめになり、ばかの剥身など境内の出店でも売っていない。参道をうずめた出店は月々の縁日とかわりないが、ちらつく雪にぽつぽつ傘をまじえ、お参りを終えて帰ってくる女の災難除の御守をさした髪にもお婆さんの黒えりまきにも雪が3片4片。御手洗の水は手を切るように冷たい。

『江東歳時記』(深川不動尊で)

久保田万太郎も深川不動尊の初不動に行ったのだろうか。

 昭和38年(1963年)5月6日、久保田万太郎は市ヶ谷の梅原龍三郎画伯邸で会食の時、不慮の死を遂げる。73歳であった。

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

石田波郷は 久保田万太郎 の死をテレビで知って句を詠んでいる。

   五月六日久保田万太郎逝く

すぐ消えし訃報のテレビ蕗苦し

 戦前、波郷が明治大学に通っていたころ、講師の一人だった久保田万太郎は昭和38年に亡くなったが、その第一報を知ったのも、台所のテレビであった。

石田修大『父の肖像』

富岡八幡宮 へ。

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