このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石田波郷の句碑


なみだしてうちむらさきをむくごとし

人はみな旅せむ心鳥渡る

松山市持田町に愛媛大学附属小学校がある。

校門の左手に大きな石田波郷の句碑があった。



   遙なる伊豫の國 幾年會はぬ母を思ふは

なみだしてうちむらさきをむくごとし

人はみな旅せむ心鳥渡る

なみだして」の句は『雨覆』所収。

昭和20年(1945年)秋の句。

「うちむらさき」はザボンの一品種で、果肉が淡紅紫色のもの。秋の季語。

人はみな」の句は『酒中花以後』所収。

昭和43年(1968年)秋、国立東京病院で詠まれた句。

昭和44年(1969年)11月21日、波郷は56歳で死去。

平成24年(2005年)11月21日、波郷忌に石田波郷顕彰会建立。

顕彰題辞

 石田波郷は20世紀を代表する松山出身の俳人である。生涯庶民哀歓の場に身を置き、韻文の心に徹し、人間の詩を歌い続け、後半生は宿痾の病による過酷な生の荒寥に怯まず、懸命の創造意欲で自己革新に務め、人間探求派俳人の地歩を確立した。

 波郷は1913年温泉郡垣生村西垣生(現松山市西垣生町)に生まれ、本名哲大、父惣五郎母ユウの次男。 垣生尋常高等小学校 から県立松山中学校(現 松山東高等学校 )に進学。同級生中富正三(後の俳優大友柳太朗)の勧めで俳句を始め、教師の渋柿派俳人堀田北田や垣生村の同派 村上霽月 の今出吟社に学ぶ。30年隣村余土の水原秋桜子門下五十崎古郷に師事、客観写生を会得、波郷の号を戴く。32年上京、 水原秋桜子 の庇護の許、青春の抒情に満ちた都会詠が衝撃を以て迎えられた。37年自ら俳誌鶴を創刊主宰者となり、同誌は今尚後継者が伝承し守り続けている。

 43年日中戦争に応召、華北へ出征。翌年病を得て、爾後の凄絶な病む生の序章となる。45年病兵で帰還、敗戦をを迎える。この年戦後初の鶴句会を催し、69年天命尽きる迄断続的な療養所生活を生涯とし、悲壮美を秘めた境涯俳句の名吟を数多く遺した。総ての句は炎の様な波郷の生命の滴の結晶、生の証しである。係累への恩愛句、溢れる人間愛句、松山への親愛句にその真骨頂を知る。54年以降没年まで15年間愛媛新聞俳壇選者として故郷への貢献は測り知れず、俳都松山の名を普遍のものとした。

 石田波郷は俳壇の巨星。松山が全国に誇れる光である。茲に有志の賛助に依り句碑を建立し、顕彰の篝火を灯す。

石田波郷顕彰会

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