このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
伊藤左千夫の歌碑
竪川に牛飼ふ家や楓萌え
木蓮花咲き児牛遊べり
江東区大島の首都高7号小松川線沿いに城東高校がある。
昭和53年4月1日、開校。
城東高校の片隅に伊藤左千夫 の歌碑があった。
竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり
左千夫作 門人文明しるす
大正二年七月三十日
碑 陰
伊藤左千夫この地に没す
左千夫記念會
説明が書かれていた。
伊藤左千夫先生
先生は元治元年千葉県成東町の生まれ、本名幸次郎、明治22年より、本所茅場町(
現錦糸町駅前
)にて牛乳搾取業を営む。明治33年子規に入門し、その没後根岸短歌会の中心として活躍、その歌柄は大きく独自の万葉調を樹立、赤彦・茂吉・千樫・文明らを育て、アララギ派興隆の基礎を作る。万葉集研究・歌論のほか小説の筆をとり、『野菊の墓』ほかの作品がある。
大正元年5月、府下大島町字亀戸902(現
大島6丁目
1番)に牛舎を移し、翌2年3月には住居も移したが、同年7月30日に急逝した。享年50歳。
碑の歌は明治40年発表の「勾王日記、4月17日」の中にあり、牝牛の誕生を「家こそりてほき悦ふ」という文に続いている。
先生終焉の地の近くに城東高校が創設され、これを機に歌碑建立の話が進み、全国にわたる多くの方々の協力、
土屋文明
先生の御支援を得て完成した。
昭和54年11月10日建立
新聞『日本』(明治40年4月23日)に「勾玉日記」(4月17日)として掲載。
此朝明けの夢こそ又なく面白かりけれ、ひた霞みにかすめる廣野が中を、烟ぶる流れの遠白く打渡せるに、東岸の堤は、青草蒼々と廣きところところに、萌黄かる數多の青にほは只薄青にのみ見ゆる柳の群立なり、 かすみをとほせる日の光り、朧ろに明るければ、白き流れも蒼き草木も、怪しきまでに其色に匂へる嬉しさ、此所いづくとも知らざるに、鷄の聲犬の聲次ぎて牝牛の兒を呼ぶらしき聲頻りに聞ゆ、やがて幼なきものどもの、笑ひ興ずるどよめきも聞え、下部等が罵る騒きもきこえて、我はいつしか現の人となりぬ、人々の語るを聞けば、夜べの宵に赤白斑なるが産み、今朝の今しがた白黒斑なるが産みて、いづれも親牛によく似し牝兒なりといふ。家こぞりてほぎ悦ぶ。
竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊へり
市に住めど牛飼ふ宿は庭の邊に狐の牡丹や田辛も咲く
伊藤左千夫の歌碑
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