このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
伊藤左千夫の歌碑
〜伊藤左千夫牧舎兼住居跡〜
JR総武線錦糸町駅南口の広場に伊藤左千夫 の歌碑があった。
伊藤左千夫の歌碑
よき日には庭にゆさぶり雨の日は家とよもして児等が遊ぶも
伊藤左千夫牧舎兼住居跡
左千夫、本名幸次郎は、1889年8月18日に千葉県
成東町殿台
の農家の四男として生まれました。
18歳の時上京して明治法律学校に入学しましたが、眼病のため中退、農業に従事しました。
22歳の時再び上京、神田の牛乳店豊功舎に勤めました。その後、いくつかの店をかわり、26歳の4月にはこの地に牧舎つき住居を購入して独立、牛乳搾取業を始めました。毎日18時間も働いたと自ら記しています。
30歳、同業の伊東並根に茶の湯、短歌を学びました。当時春園と号し、桐の舎桂子の月例会に出席、「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」を発表して好評を得ます。
やがて短歌革新運動を進める
正岡子規
に共鳴して、1900年その門に入り、作歌に励みます。子規もその才能を高く評価し、根岸派の有力な一員となります。
子規没後は、根岸派の機関誌『馬酔木』『アララギ』により活発に作歌を続け、多くの著名な歌人を育てました。なお、左千夫には『野菊の墓』等の小説、写生文、歌論、新体詩等のすぐれた作品がたくさんあります。
1913年7月30日、移転先の江東区大島で脳溢血のため急逝し、亀戸の
普門院
に葬られました。
墨田区
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