このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

伊藤左千夫の歌碑


天地の四方の寄合を垣にせる

   九十九里の濱に玉拾ひ居り

山武市本須賀に本須賀海水浴場がある。


本須賀海水浴場に伊藤左千夫 の歌碑があった。


天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の濱に玉拾ひ居り

 昭和37年(1962年)7月30日、歌人伊藤左千夫翁50周年記念に成東町建立。

 明治42年2月20日、信州より胡桃沢勘内がはじめて 左千夫宅 を訪問した。山育ちの勘内に広い太平洋の海を見せようと、28日、九十九里浜に赴き、在住の蕨橿堂・蕨桐軒も誘って遊んだ。この歌はこの時のものである。

 この九十九里浜に何回か足を運んでいる左千夫だが、大自然の広大な情景はなかなか捉えにくく、この1連7首は、明治32年の「詠矢刺浦歌並短歌三首」、同35年「九十九里の浜に遊びて」、同40年「磯の月草」を経てやっとたどり得た境地であった。

 初出は「東京朝日新聞」(明治42・3・16)であるが、その後『アララギ』9月号に再掲した。折しも『アララギ』が上総から東京の左千夫宅に移った時で、信州の『比牟呂』も合同して一大勢力となった『アララギ』の門出にふさわしい歌となった。左千夫自身「新しい進路が開かれた」といわしめたもので、万葉調ながら現実感が広大な自然と一体となって限りない深さを示した。

  子規 の写生を忠実に守ってきた作者は、自らの主情的性格を生かしつつ写実を深め、豊潤な歌境を形成した。この歌壇は40年代に入って顕著で、子規の殻を抜け左千夫独自のものになる。この一連はそうしたなかでの所産である。

 この一首も、極めて雄大な捉え方をしながら、そこに自己を置き、立体的な表現になっている。九十九里浜は作者の好んだ郷里の風土で、小説『春の潮』『隣の嫁』『分家』にも描かれるが、歌にあらわされた自然の雄は、 茂吉 のいう「天地創造のむかし国々生れんとする時のくだりに身を置くやう」な光景である。「天地の四方の寄合」も作者の好んだ表現の一つだが、追随を許さない超現実的感動の集積とみなすことができる。

山武市

山口誓子 は伊藤左千夫の歌碑を見ている。

 九十九里浜行へは百二十六号線で行つた。成東から左へ折れた本須賀といふ海岸に、伊藤左千夫の歌碑が立つてゐる。

   天地の四方の
      寄合を垣にせる
     九十九里の浜に
        玉拾ひ居り

 明治四十二年二月二十八日、左千夫がここに遊んで作つた連作の一首だ。

 斎藤茂吉は、この歌を「実に豊麗で、天地創造のむかし国々生れんとする時のくだりに身を置くやうな気持である」と批評した。

「九十九里浜行」

 平成18年(2006年)3月27日、成東町は山武町・松尾町・蓮沼村と合併して山武市となった。

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