このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石川啄木ゆかりの地


啄木ゆかりの赤心館跡

炭団坂 の急な坂道を下りて、菊坂沿いの細い道に出る。


左に下って行くと 「樋口一葉の菊坂旧居跡」 がある。

今日は右に行ってから、菊坂に出る。

途中に 「宮沢賢治旧居跡」 がある。

菊坂に面して、「オルガノ株式会社」があった。

「オルガノ株式会社」は「啄木ゆかりの赤心館跡」。

本妙寺坂を上って路地を入ると 「本郷菊富士ホテルの跡」 がある。

長泉寺の手前に「啄木ゆかりの赤心館跡」の標示板があった。


啄木ゆかりの 赤心館跡 オルガノ株式会社(本郷5−5)内

 石川啄木(1886〜1912)は「文学の志」やみがたく、明治41年5月、北海道の放浪の旅を終えて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後金田一京助を頼って、ここにあった〝赤心館〟に下宿し、執筆に励んだ。

 赤心館での生活は4ヶ月。その間のわずか1ヶ月の間に、「菊池君」「母」「天鵞絨(ビロウド)」など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。

 しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。このようななかで、数多くの優れた短歌を残した。収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助の援助で共に近くにあった下宿〝蓋平館(がいへいかん)別荘跡〟に移っていった。

たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず

(赤心館時代の作品)

文京区内の啄木ゆかりの地

・初上京の下宿跡(明治35年11月〜36年3月)
現・音羽1−6−1
・再度上京の下宿跡(明治37年10月〜同年11月) 
現・弥生1−8あたり
・蓋平館別荘跡(赤心館〜 明治42年6月)
現・本郷6−10−2大栄館
喜之床 (蓋平館〜明治44年8月)
現・本郷2−39−9アライ理髪店
終焉の地 (喜之床〜明治45年4月13日死亡)
現・小石川5−11−7宇津木産業

−郷土愛をはぐくむ文化財−東京都文京区教育委員会 平成元年3月

 明治35年(1902年)11月9日、石川啄木は 東京新詩社 を訪問して初めて与謝野鉄幹に接し、翌日与謝野晶子に会う。

蓋平館別館跡 のへ。

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