このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
石川啄木ゆかりの地
石川啄木ゆかりの蓋平館別館跡
赤心館跡
から細い路地を行き、新坂に出る。
新坂に「太栄館」があった。
「太栄館」
(HP)は「石川啄木由縁之宿」。
「太栄館」の前に石川啄木の歌碑があった。
石川啄木由縁之宿
東海の小島の
磯の白砂に
我泣き濡れて
蟹とたはむる
『一握の砂』巻頭の歌である。
函館の
石川啄木一族の墓
にもこの歌が刻まれている。
歌碑の脇に説明が書いてある。
石川啄木ゆかりの蓋平館(がいへいかん)別館跡
石川啄木(一(はじめ)・1886〜1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、
赤心館
(オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士力見える、富士が見える」と喜んだという。
ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。
北原白秋
、
木下杢太郎
や吉井勇などが編集のため訪れた。
東京朝日新聞社
の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ38ノ9)の
喜の床
に移った。ここでの生活は9か月間であった。
蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
父のごと秋はいかめし
母のごと秋はなつかし
家持たぬ児に (明治41年9月14日作・蓋平館で)
−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会
昭和56年9月
明治41年(1908年)10月23日、蓋平館別荘で詠まれた歌の碑が上り線東北自動車道
岩手山SA
にある。
「鳳明館森川別館」
へ。
石川啄木ゆかりの地
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください