このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
島崎藤村ゆかりの地
『伊豆の旅』
〜湯ヶ島温泉「
眠雲閣
落合楼」〜
明治42年(1909年)、島崎藤村は修善寺温泉から馬車で湯ヶ島温泉へ。
「落合楼」
に泊まる。
「
眠雲閣
落合楼」
到頭湯が島に泊ることに成つた。日暮に近い頃、吾儕
(われわれ)
は散歩に出た。門を出る時、私は宿の内儀さんに逢つた。「此邊には山芋
(やまのいも)
は有りませんかね。」と私は内儀さんに尋ねて見た。 「ハイ、見にやりませう。生憎只今は何物
(なんに)
も御座ません時でして——野菜も御座ませんし、河魚も捕れませんし。」と内儀さんは氣の毒さうに言ふ。 「芋汁
(とろゝ)
が出來るなら御馳走して呉れませんか。」
結局「芋汁
(とろゝ)
は出來なかつた。」
吾儕
(われわれ)
の爲に酒を買ひに行つた子供は、丁度吾儕が散歩して歸つた頃、谷の上の方から降りて來た。
子供が酒を買いに行ったのは「落合楼」の前にある「天城屋」に違いない。
夕方から村の人は温泉に集まつた。この人達はタヾで入りに來るといふ。 夕飯前に吾儕が温まりに行くと、湯槽の周圍
(まはり)
には大人や子供が居て、多少吾儕に遠慮する氣味だつた。 吾儕
(われわれ)
は寧ろ斯の山家の人達と一緒に入浴するのを樂んだ。不相變
(あひかはらず)
、湯は温かつた。容易に出ることが出來なかつた。吾儕の眼には種々
(いろいろ)
なものが映つた——激しく勞働する手、荒い茶色の髮、僅かにふくらんだばかりの處女
(をとめ)
らしい乳房、腫物の出來た痛さうな男の口唇……
おおらかである。
翌日、馬車で
天城峠
を越えた。
川端康成
は大正7年(1918年)10月30日から11月初旬にかけて初めて伊豆旅行をした。その9年前のことである。ちなみに
与謝野晶子
が天城峠を越えたのは大正12年(1923年)元日の夜のこと。
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