このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
翁 塚
千句公園
〜千鳥塚〜
名古屋市緑区鳴海町三王山に千句公園がある。
千句公園の片隅に千鳥塚があった。
千鳥塚
武城江東散人 芭蕉桃青
碑の裏に「知足軒寂照 寺島ボク言 同 安信 出羽守自笑 児玉重辰 沙門如風」と鳴海六俳人の名が刻まれている。
寂照軒知足
下里金右衛門。屋号を千代倉と称する豪商。出家して寂照と号した。
寺島ボク言 桝屋伊右衛門。鳴海本陣の主人で、知足の叔父。
寺島安信 嘉右衛門。ボク言の分家。
出羽守自笑 岡島左助。刀鍛冶師で出羽守氏雲と称す。後、出家して了照と号した。
児玉重辰 鳴海宿問屋の主人。
沙門如風 鳴海如意寺の住職。文英和尚。
この碑は、貞享4年(1687年)冬11月、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻が、満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連中の名、側面に興行の年月が刻んである。これは、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってより。
昭和52年(1977年)名古屋市史跡に指定された。
貞享4年(1687年)11月7日、興行。
星崎の闇を見よとや啼千鳥
芭蕉
船調ふる蜑の埋火
安信
築山のなだれに梅を植かけて
自笑
あそぶ子猫の春に逢つゝ
知足
鷽の声夜を待月のほのか也
ボク言
岡のこなたの野辺青き風
如風
笠覆寺
に「千鳥塚」の句碑がある。
宝暦6年(1756年)、白井鳥酔は千鳥塚を訪れている。
千鳥塚 眺望
ね覺は松風の里、呼つきは夜明てから 笹
(ママ)
寺は雪の降
る日
星崎の闇を見よとや啼千鳥
こゝに眞跡を拜す。此句を得給ひたる所は、驛を西へ三丁はかり出て右の山際山王宮孤森の側なる岡に遊ひ給ふ時の事也けり。翁みつから身後のかたみに千鳥塚といふものを築んとて小石を拾ひ重ね給ふを、知足をはしめボク言安信重辰自笑合資して終に成就せりとそ。知叟か孫蝶羅子にいさなはれてその塚邊につくはふて見わたせは、天池
(ママ)
の渺々たるを中に置て勢南に秀たる鈴鹿朝熊の山々薄墨をもて畫に髣髴たり。こなたに星崎七郷の人家、寐さめの里、松風の里つゝいて呼繼の濱をのをの眼中にあり。むかし海人の焚さしといへる薫香は此濱より出しとも傳ふ。濃
(こき)
といへる磯草あり、かたちは似たれとも荻にも芦にもあらす、緑の浪の上に戰く。笠寺は松のひまひまに透て、目の及ふ所みな歌枕なれは、鳴海百首の詠もむへ也。代々の詞客こゝに來て心をとゝめさるといふなし。
星崎の晝は巣て見る千鳥哉
『風字吟行』
明治44年(1911年)5月26日、河東碧梧桐は下郷氏の案内で千鳥塚を見にいった。
次で鳴海下郷氏の案内で、上野山というのにある千鳥塚を見に上った。一本の榎が畑の間の叢の中にたっておる。あたりに茨の花が咲いておる。その叢を推し分けて見ると、尺余りの細長い石が立ててある。それが千鳥塚であるという。芭蕉の「星崎の闇を見よとや鳴千鳥」の短尺を埋めたという口碑が残っておるのである。海はいずこと見はるかすと遠く一帯の松が横たわっておるばかり、行く帆の影も見えぬ。このあたり海は年々にあせて、田畑は次第に墾
(ひら)
かれるという。星崎の名所も、今は千鳥も聴くことの出来ぬ淋しいものになった、ただねざめ呼続の松風ばかり昔を忍ばしめる。
『続三千里』
「芭蕉句碑」
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