このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
やかて死ぬけしきわ見え寿せみのこゑ
甲府市から県道3号甲府市川三郷線(国母通り)で昭和町に向かい、中央自動車道を過ぎる。
県道3号沿いのガソリンスタンド脇に芭蕉の句碑があった。
やかて死ぬけしきわ見え寿せみのこゑ
出典は
『猿蓑』
。
元禄3年(1690年)夏、芭蕉が
幻住庵
で秋之坊に示した句だそうだ。
昭和38年(1963年)3月29日、東風堂上杉久子建立。
建てるのちのもくてき
斯の地は明治八年甲府市川竝に鰍沢新道線が開通せらる。西條押原源氏螢發生の有名地なり。身延線國母駅を去る千米の地点。鎌田川の清流に沿い、大字押越一六五三地先き。通稱大窪元。所有地に盛土石積ミをなして蕉風俳道研修五十余年。三代目東風堂の門弟として立机二十余年。愛妻鶴代事他界して二十回忌に相當るのて之を記念し、且つ多年發願中の元録の文豪芭蕉翁塚を設け、竝に句碑を建立せり。天額は日蓮宗管長身延山法主八十六世日静猊下の眞筆也。併而交通万除日蓮像を永久に奉祭する。
維時昭和三十八年癸卯歳弥生二十九日
發願人三代目東風堂上杉久子 六十三年
上杉久子は本名久義。
芭蕉翁事績に就いて
芭蕉翁。姓は松尾。名は宗房。初め金作と稱し、後甚七郎と改め、最後に忠左ヱ門と稱す。伊賀公藤堂家に仕え、幼にして頴語に通じ、禪學を修し、俳諧を好ミ、北村季吟を慕い、藤堂家の命を受け、江戸小石川の水路を修し、甚七郎工風督励巧をつくし終る。 即日病と稱して外出。深川に庵をかまえ、花鳥風月を友として、薙髪なして、呑軒桃青と号し、天和3年炎上(延宝8年12月26日ともあり)深川庵烏有に帰し、翁爾来甲斐駿河の間を歴遊し、再び江戸の新庵にかえり、はせ哉1株を植栽し、号とする。 貞享4年秋、鹿島に遊び、翌年、大阪を巡り、元禄2年、陸奥を巡りて、7年秋、伊賀に在り、大阪を経て南都に赴かんとして、9月末より痢病に罹りて、遂いに翌月12日、多くの門人に厚き看護もむなしく、花屋仁左ヱ門方の離れ家にて沒。享年51歳也。晋其角翁終焉記を録す。遺骸は近江に入り、14日、翁の遺言に依り義仲寺(征夷大将軍清和源氏義仲公埋葬地に)住持大導師となり、多数門人會葬、厳なる葬儀挙行、云々。
翁 辞 世
旅にやみて夢は枯野をかけ巡り
特に芭蕉翁は寓居火災後甲斐の國郡内に入り、山中湖畔に重要文献をとゞめつゝ、又子酉川ほとり、今の山梨市近郷にも足跡ありとか、云々。
傳説記東風堂久子記より
正法寺
に向かう道に東風堂久子の句碑があった。
日本終戦の作
哭て喰う昼餉や盆の十五日
芭蕉の句碑
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