このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
けふはかり人も年よれ初しくれ
倉吉市新田の天神川西岸に「憩いの広場」がある。
「憩いの広場」に芭蕉の句碑があった。
けふはかり人も年よれ初しくれ
出典は
『韻塞』
(李由・許六 共編)。
元禄5年(1692年)10月3日、赤坂彦根藩邸中屋敷で開かれた五吟歌仙の発句である。
左側面に清雅の句が刻まれている。
誰も見てゆけよ枯野に遊ぶ鶴
明治9年(1876年)、磯江清雅建立。
憩いの広場完成記念碑
郷土の俳人磯江清雅が俳聖芭蕉の句碑を建て翁塚とした。明治9年のことである。この貴重な文化遺産を顕彰し伝承することを使命考え、さらに”水と緑と文化のまちづくり”を目指す倉吉市第6次総合開発計画の一環として進められている地域計画事業に取り組み、ここに上北条地区住民の憩の広場を建設した。
また、平成元年は上北条小学校の新設、伯耆ニューライフビレッジづくり、中部クリーンセンターの移転改築等、地域文化の向上と活性化が期待される飛躍の年である。
翁塚について
磯江清雅は文政元年徳左衛門の長男として新田に生れる。少年期を父の創設した寺子屋で学び、漢籍を戸崎龍洲、墨竹を大野竹窓、仏典を光徳寺賢童和尚について修学した。明治3年53歳で芭蕉八世五仲庵有節に入門、明治9年”けふばかり人も年よれ初しぐれ”の芭蕉の句を陽刻し、”誰も見て行けよ枯野に遊ぶ鶴”の自作の句を陰刻し、翁塚とした。 清雅には俳友が多く、鳥取の應波・松江の曲川、他に芝石等栽・蟠龍・原田墨園・谷田翫斎・飯田年平等と交際した。明治11年5月、奥の細道を巡る句行脚に旅立ち、翌年の7月郷里に旅わらじを脱いだ。明治18年12月68歳で没した。
翁塚は年の経過と共に荒廃していたものを、昭和30年、70周忌を機に上北条公民館長が発起し有志に呼びかけ、境域の整備をし面目を一新された。追悼句会も催され爾来90周忌に至るまで同好会による追善行事が執行されて来た。
清雅没して百余年になるが、翁塚を中とした憩いの広場建設を以って清雅百年の追善に応えたい。
平成元年10月吉日
上北条地区振興協議会
芭蕉の句碑
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