このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
連句碑
夏馬の遅行我を繪に看る心哉
「ぴゅあ富士」
の裏に芭蕉翁寓居桃林軒があった。
芭蕉翁寓居桃林軒
俳聖松尾芭蕉は、天和2年(1682年)12月28日の江戸大火で
芭蕉庵
が焼失し芭蕉の門人であった谷村藩の国家老高山傳右衛門繁文(俳号麋塒)の勧めで来峡した。
高山家の離れ桃林軒を寓居として天和3年(1683年)5月まで逗留した。
このゆかりの地に郷土を愛する有志が相計って、芭蕉の里づくりの拠点として再建した。
平成16年5月吉日
芭蕉翁寓居桃林軒再建委員会
庭の奥に芭蕉と麋塒の連句碑があった。
夏馬の遅行我を繪に看る心哉
芭蕉
変手ぬるく滝凋ム滝
麋塒
碑の裏に解説が書いてあった。
平成16年5月吉祥日建之
なれしか俳句会
夏馬の遅行我を繪に看る心哉
芭蕉
変手ぬるく滝凋ム滝
麋塒
掲出の作品は、天和3年(1683年)夏、谷村に芭蕉を迎えて巻かれた連句の発句・脇。自分の旅姿を画中の人物とみたてた芭蕉に対して、猛暑の中水量の乏しい滝でしばし涼をとろうにもぬるいのだと麋塒は応じている。
楠本六男(都留文科大学教授)
天和3年(1683年)夏、
曽良
は高山麋塒宅で芭蕉に師事した。
曽良35歳の時である。
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