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私の旅日記
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2010年
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大師堂(芋大師)
〜碑巡り〜
多古町井戸山に井戸山区民館がある。
井戸山区民館に大師堂(芋大師)がある。
井戸山 石芋大師の由来
昔むかし
ある夕暮れ時、農婦がこの清水井戸で里芋を洗っていました。傍らを通りすがった旅の僧が、農婦が洗っていた里芋を無心したところ、農婦はこの里芋は石のように固くて、煮ても焼いても食べられないと断りました。
旅の僧は、念仏を唱えてこの場を立ち去り、さて農婦が里芋を家に持ち帰り鍋にかけて煮たところ、いくら煮立てても石のように固く食べられそうにも有りません。不祥、ふしぎに思った農婦は里芋を洗った井戸端に捨てたのでした。
このことを聞き、やがて旅僧が諸国行脚を続ける空海(弘法大師)であることを知った村人達は、清水井戸の傍らに小堂を建てて上人を祀りました。
翌年、煮ても焼いても捨てた里芋から青々と芽が出て(井戸の中央)村の畑の作物も良くとれ、村人達は仏罰をおそれ、仏威を感じ愈々信心を深めたそうです。以上がこの地に古くから伝わる石芋大師の由来です。
人間の強欲な心を戒めた伝説かと思われます、自分さえ良ければと言う風潮は現代人にも通じるものがあります。広い心、優しい思いやりの心をもち、私たちは、遠い昔の話をいつも心に留めて生きて行きたいものです。
大師堂の左手前に
芭蕉の句碑
があった。
山路来て何やらゆかしすみれ草
出典は
『野ざらし紀行』
。
貞享2年(1685年)、京都から大津に至る山路を越えて行く時に詠んだ句とされる。
碑の裏には白兎園一叟宗端居士の「隱語銘」が刻まれているらしい。
草に水うつ巻草をこかしつゝ
きみかつはさを二人して
一つうらなふその人の
なとあらさらんことの葉を
くらへてもふすしめすとて
はりはかけすも其まゝに
此日の本に霞わたらし
「白兎園一叟宗端居士」は白兎園二世広岡宗瑞。飛鳥園一世である。
寛政8年(1796年)10月12日、寺作の土橋山東禅寺に二代飛鳥園一叟が建立。建立を記念して『菫塚集』が上梓された。
『諸国翁墳記』
に「
菫 塚 下総香取郡寺作村土橋山東禅寺境内
ニ
建 飛鳥園一叟
」とある。
寛政8年(1796年)は広岡宗瑞の二十五年忌にあたる。
「二代飛鳥園一叟」は並木寂阿。多古町御所台の豪農並木七郎右衛門である。
寛政13年(1801年)、飛鳥園を譲って南無坊を号している。
享和元年(1801年)5月、68歳で没。
後に東禅寺は廃寺となり、芭蕉の句碑は大師堂に移された。
大師堂の左手に里芋を洗ったといわれる小さな池がある。
池の辺にもう1つ芭蕉の句碑があった。
古池や蛙とひこむ水の音
出典は『蛙合』(仙化編)。
貞亨3年(1686年)春、
深川芭蕉庵
で詠まれた句。
文政6年(1823年)3月、国老黍堂建立。
碑の裏には「二世一叟」・「三世一叟」の句が刻まれているらしい。
氷らぬは氷らて寒し水の音
二世一叟
夕暮は麦に声あれ鐘の雲
三世一叟
「二世一叟」は
並木寂阿
。「三世一叟」は三世飛鳥園貞翁一叟である。
貞翁は多古町の船越の人で、宇井氏、名は治善、通称佐富。
文政6年(1823年)は貞翁の七回忌である。
芭蕉の句碑の左に南無坊寂阿辞世の句碑があった。
ほとゝきすいてや明るき西の空
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