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私の旅日記
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2014年
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佐倉城址
〜子規の句碑〜
佐倉城址に正岡子規の句碑があるというので、行ってみた。
佐倉城址
佐倉城は印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に土塁を加えて築城した平山城で、石を用いていない。
戦国時代のなかごろ、千葉氏の一族鹿島幹胤
(みきたね)
によって初めて築かれたと伝えられ、別に鹿島山城とも呼ばれた。
千葉邦胤
(くにたね)
もここに本城を移そうとしたがなかばにして果さず、のちに徳川家康がその要害に着目し、土井利勝に命じ慶長16年(1611年)正月から7年間をついやし、元和3年(1617年)ごろに完成した。
以来、徳川幕府では江戸のまもりとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じた。
延享3年(1746年)
山形
から堀田氏が再び移封し、六世126年間11万石を領有して明治維新に及んだが、明治6年(1873年)第一軍管第二師営の営所が置かれ城の施設はことごとくこわされた。
その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった。
佐倉城址公園内の茶室三逕亭の前に堀田正睦公の銅像があった。
堀田正睦公
日本を鎖国から開国に導いたことで知られる堀田正睦公は、文化7年(1810年)8月1日に生れ、文政8年(1825年)に佐倉藩主となりました。
天保4年(1833年)に藩政改革を宣言し、文武の奨励によって藩士の意識高揚を図り、人々の生活の向上にも力を注ぎました。特に、藩校の拡充や諸藩に先駆けて蘭学を導入するなど、多くの人材を育成しました。
公は、天保12年(1841年)に幕府の老中に就き、安政2年(1855年)には老中首座となり、翌年には外国事務取扱に任じられます。
「攘夷」が叫ばれるなか、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにすることが必要であるとして開国を唱え、アメリカ総領事 タウンゼント・ハリスと「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けました。
元治元年(1864年)3月21日、公は、佐倉城中の三の丸御殿で卒し、甚大寺に葬られました。後に、法号から「文明公」と称えられ、広く敬愛されています。
この銅像は、佐倉ライオンズクラブは正睦公の遺徳を偲び、クラブ創立40周年を記念し、ゆかりの地に建立するものです。
平成18年10月21日
二の丸跡入口にタウンゼント・ハリスの銅像があった。
タウンゼント・ハリス
安政3年(1856年)7月、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、フランクリン・ピアス大統領の親書を携え
下田
へ到着しました。来日の目的は、他国に先駆け日本と通商条約を結び、開国を実現させることでした。
こうしたアメリカの動向が、開明派の藩主堀田正睦公を外交の舞台に登場させることとなりました。ハリスは正睦公との幾度にもわたる直接交渉で紆余曲折を重ねますが、「通商関係は、相互の友愛と信頼によってのみ実現する」との強い考えが、正睦公を共感させたようであります。
安政5年(1858年)6月に至り、イギリス、フランスなどからも開国要求の激しさが増す中、ハリスは正睦公に対し「今こそ条約調印の機」と訴えました。こうした状況を受け、それまで正睦公の指揮下で交渉にあたってきた井上清直、岩瀬忠震
(ただなり)
両名がアメリカ軍艦ポーハタン号に赴き、日米修好通商条約に調印しました。今からちょうど150年前の6月19日のことです。
幾多の困難を乗り越え、大役を果したハリスは、文久2年(1862年)4月、5年9か月間の日本滞在に終止符を打ち、南北戦争の只中にある母国に帰りました。
この銅像は、日米修好通商条約150周年を記念して、佐倉街づくり文化振興臼井基金等の支援、協力のもと、佐倉ライオンズクラブが建立するものです。
平成20年6月14日
安政6年(1859年)、港区元麻布の
善福寺
に初代アメリカ合衆国公使館が設けられ、タウンゼント・ハリスらが在留した。
二の門跡に正岡子規の句碑があった。
佐倉
常磐木や冬されまさる城の跡
(
「寒山落木」
巻3自筆稿)
明治の時代思潮を体現し俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した
正岡子規
(1867−1902)は、1894年(明治27年)本所−佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れている。
その時の模様は当時の新聞「日本」(12月30日号)に詳しいが、この句はその時詠んだものであり、写生文の創始者として郊外写生の真髄をよく伝えている。
この時すでに子規は病気がちであり、その悲痛も感じられる。
子規は佐倉ゆかりの人間国宝香取秀真、洋画家の浅井忠とも深いつながりがあり、フランス留学から帰国した浅井忠は近くに住んで互いに敬愛した仲であった。
佐倉にはここの他、国鉄佐倉駅前城南橋付近にも
「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」の句碑がある。
昭和60年3月
佐倉市役所 商工観光課
1987年4月1日、国鉄はJRとして民営化された。
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