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私の旅日記2006年

蘇我比咩神社 〜小河原雨塘〜

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 JR内房線蘇我駅西口を出て南に歩くと、蘇我小学校の先に蘇我比咩(そがひめ)神社がある。


蘇我比咩神社


蘇我比咩神社は 延喜式内社

 当社は延喜式内神社で、古くは千葉郡一円の総鎮守社として深い信仰を集め、天正19年(1591年)、江戸に入府した徳川家康は社領10石を寄進した。文化9年(1812年)の火災で、別当寺の春光院をはじめ、社殿・宝物などを失い、かつての繁栄の姿をしのぶこともできない。蘇我野は古代、蘇我氏に属する部民の居住地であったので、当社は彼らの氏神として祀られていたと思われる。また、蘇我の地には、日本武尊と弟橘媛とにかかわる地名伝説を伝える。

千葉市教育委員会

かつての繁栄の姿をしのぶこともできない。


蘇我比咩神社は下総国二ノ宮(郷社)。

ちなみに下総国一宮は 香取神宮

蘇我比咩神社御縁起に 日本武尊 と弟橘媛の話が書いてあった。

蘇我比咩神社御縁起

 当神社は、今から壱阡五百年位前里人の守り神として祭られており、その後第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方の夷達を統一すべく、弟橘姫を始め多数の家来をつれて軍船に乗り千葉沖にさしかかったところ、風浪が強くなり船が沈没の危険にあった時、弟橘姫は竜神の怒りを静めんと我が身を海中に沈め、この時一緒に同道して来た五人の比咩等も共に海中に身を投じた。 その内の一人蘇我大臣の娘はこの下の海辺に打ち上げられ、里人の手厚い看護により蘇生することが出来、都に帰ることが出来た。この里人の行為に深く感激し、第十五代応神天皇の特別の命により、蘇我氏がこの周辺の国造として仁政をつかさどった。代々蘇我氏は「比咩神社」「春日明神」を守護神としており、当地に両大神の分霊を受けづきて神社を建立した。

 日本武尊と弟橘媛の話は鈴木三重吉の『古事記物語』に分かりやすく書かれている。

 命はその相模の半島をお立ちになつて、お船で上総へ向つておわたりにならうとしました。すると途中で、そこの海の神がふいに大浪を巻き上げて、海一面を大荒れに荒れさせました。命の船は忽ちくるくる廻(まは)り流されて、それこそ進むことも引きかへすことも出来なくなつてしまひました。

 そのとき命がおつれになつてゐた、お召し使ひの弟橘媛は、

 「これはきつと海の神の祟りに相違ございません。私があなたのお身代りになりまして、海の神を宥(なだ)めませう。あなたはどうぞ天皇のお言ひつけをお仕とげ下さいまして、目出たくあちらへおかへり下さいまし。」と言ひながら、菅(すげ)の畳を八枚、皮畳六枚に、絹畳を八枚かさねて、浪の上に投げ下させるや否や、身を翻してその上へ飛び下りました。

 大浪は見る間に、忽ち媛をまき込んでしまひました。するとそれと一しよに、今まで荒れ狂つてゐた海が、ふいにぱツたりと静つて、急に穏かな凪ぎになつて来ました。

 命はそのおかげでやうやく船を進めて、上総の岸へ無事にお着きになることが出来ました。

 それから七日目に、橘媛の櫛がこちらの浜へ打ち上げられました。命はその櫛を拾はせて、哀れな媛のためにお墓をお作らせになりました。

 弟橘媛の櫛が浜へ打ち上げらたことは書いてあるが、蘇我大臣の娘が海辺に打ち上げられたことは書かれていない。

小河原雨塘 の曽我姫を詠んだ句がある。

曽我姫や蝉鳴くたびに風の吹く

 小河原家は代々名主役を務め、雨塘は6代目で清左衛門と称し、通称七郎兵衛。加舎白雄 の門下。 白井鳥酔 (1701−1769)の松露庵を継承して五世を名乗る。天保3年(1832年)11月18日、75歳で没。

加舎白雄 も曽我姫を句に詠んでいる。

曾我姫の神社は曾我野むら中にたゝせ給ふ。げに古きおゝん神なるに、

   姫神のみまへすゞしも藻しほ草

「鎌都」

小林一茶は房総俳諧行脚の途次、度々曽我野村に 小河原雨塘 を訪れている。

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