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私の旅日記2004年

手児奈霊堂〜高橋虫麻呂の歌碑〜
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「真間の継橋」 の先を右に曲がると、手児奈(てこな)霊堂がある。


手児奈(てこな)霊堂


手児奈(てこな)霊堂

 奈良時代の初め、山部赤人が下総国府を訪れたおり、手児奈(てこな)の伝承を聞いて、

われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処(おくつきところ)

と詠ったものが万葉集に収録されている。

 手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀(ぶんき)元年(1501年)には 弘法寺 の七世日与上人が手児奈の霊を祀る霊堂として世に広めたという。

 手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人々の争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽したとか、手児奈は国造(くにのみやつこ)の娘で、その美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが生まれ故郷の真間の浦の海辺であったとか、さらには神に仕える巫女(みこ)であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。

手児奈霊堂に 万葉集の歌碑 がある。


   挽歌 詠勝鹿眞間娘子謌

勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児名し思ほゆ

『万葉集』 (巻九)

山部赤人の歌ではなく、高橋虫麻呂のものである。

 安永7年(1778年)8月14日、横田柳几は関東三社詣での途次、手児奈大明神に参拝している。

手児奈大明神 を拝す

土芋の手こなも寄ルや井のほとり
   柳

真間井 瓶甕可汲固志何傾 嗚呼節婦与水冽清

真間の井や幾秋水も名も涸す
   篁


 文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は真間の手児名のことを書いている。

○眞間の手兒名がおくつき處は、池の邊に手兒女明神とて社あり。


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