このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

「ターナー島」〜正岡子規の句碑〜
indexにもどる

伊予鉄道高浜線高浜駅下車。

松山市高浜の沖に「ターナー島」がある。


「ターナー島」の由来

「ターナー島」は松山市高浜1丁目、横山の沖約150メートルに浮かぶ小島で、正式名称は「四十島」といいます。

明治39年4月、 夏目漱石 は小説「坊っちゃん」を発表しました。その中で「四十島」のことを次のように描写しています。

「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」・・・・・・・

「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」・・・・・・・

すると野だいこがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名付けようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、われわれはこれからそういおうと賛成した。

以来、松山では「四十島」のことを「ターナー島」と愛称しています。

「ターナー島を守る会」設置

正岡子規の句碑 があった。


初汐や松に浪こす四十島

『寒山落木 巻一』 (明治二十五年 秋)に収録の句。

 明治25年秋の句。子規自筆拡大。「初汐」は旧暦8月15日の大潮のこと。句に詠まれた姿のよい松は枯れてしまったが、篤志家の手によって蘇りつつある。

 明治25年(1892年)伊予鉄道が三津から高浜まで延長され、子規らはよくここに遊んだ。

昭和52年(1977年)11月、鶴村松一建立。

野村朱燐洞(しゅりんどう)の句碑


かがやきのきはみ白波うちかへし

 死の直前の大正7年4月の作。朱燐洞は、この年の10月31日、流行性感冒により24歳の若さでこの世を去った。

昭和55年(1980年)12月、鶴村松一建立。

 明治26年(1893年)11月、愛媛県温泉郡素鵞村大字小坂(現:松山市小坂町)に生まれる。守隣(もりちか)

 明治44年(1911年)、 荻原井泉水 の「層雲」に参加。

 大正7年(1918年)4月10月31日、没。

 昭和14年(1939年)10月5日、 種田山頭火 は野村朱燐洞の墓に詣でる。

知らなかった。



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください