このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
円明寺
〜松根東洋城の句碑〜
太山寺
から円明寺まで県道183号辰巳伊予和気停車場線を歩く。
門前に松根東洋城の句碑があった。
鶴飛久や丹頂雲越やぶりつゝ
大正9年の句。句碑の筆跡は、戦前から
松山中学校
(現松山東高校)の「明教館」に掲げられていた掛軸から採った。
「鶴引く」は、鶴が春になって北へ帰ることで、「春」の句。前途ある若人を祝福するにふさわしい、勢のいい句である。
東洋城は、松山中学で
夏目漱石
に英語と俳句を学んだ。後に俳誌『渋柿』を主宰刊行した。東京生まれ。父は宇和島藩の城代家老であった。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
円明寺八脚門
円明寺八脚門 1棟
愛知県指定有形文化財(建造物)
四国八十八ケ所53番札所
。寺伝によれば、天平年間(730年ころ)行基によって勝岡の地に創建され、その後兵火にかかって荒廃していたのを、寛永年間(1624〜1643)に須賀専斎重久によって現在の地に移され、再興されたという。
八脚門は、三間一戸、一重、入母屋造、一軒疎垂木
(ひとのきまばらだるき)
、本瓦葺。表正面の柱間は4.9メートル、側面3.0メートルで創建。当時のものとは若干の変容が推定される。柱は、円柱で柱頭にのみ粽をつけ、頭貫・台輪をとおしてその上に組物で軒を支え、柱間の中備には間斗束を置く。木鼻の彫刻文様や組物の造りに室町時代の様式を残している。
松山市教育委員会
円明寺本堂
真言宗智山派の寺である。
円明寺
四国八十八か所
の53番札所である。須賀山正智院と号し、本尊は阿弥陀如来である。
寺伝によると、天平年間(729〜749)、僧
行基
の創建で、聖武天皇の祈願所であったという。
この寺は、はじめ、ここから西方の和気西山の海岸にあり、海岸山円明寺と言われた。五重塔もあり、立派な本堂など豪壮な七堂伽藍をそなえた寺院であったという。
幾たびかの戦禍により一山のほとんどを焼失し、寛永10年(1633年)、須賀重久が現在の地に再建したので須賀山円明寺といわれるようになった。また寛永13年(1636年)には仁和寺の直末寺に加えられ、正智院と号するようになったと伝えられている。
観音堂に安置されている十一面観音像は、慶長5年(1600年)、河野家再興をはかった遺臣たちが、戦死者の菩提を弔うために奉納したといわれている。
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