このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
太山寺
〜国宝〜
松山市太山寺町の太山寺に行ってみることにした。
太山寺二王門
太山寺二王門 1棟
重要文化財(建造物)
二王門は参道の一ノ門と山門の中間点に建つ三間一戸の八脚門で、金剛力士像を安置する。屋根は入母屋造、軒は一軒、本瓦葺。この軒を支える二手先の組物に、元は回り縁であった腰組の名残りが見られる。これは天明17年(1485年)に大修理が行われたとき、当初は楼門(重層)であったものを、現在の単層に改めたものと考えられる。
基本的には組物を疎組にする和様であるが、円柱には上下に粽(丸み)を付け、その柱脚には礎盤を置くなど、禅宗様の手法も加えられ折衷棟建築である。
その後、昭和4年(1920年)にも解体修理が行われているが、全体的に木組も大きく、よく鎌倉期の特徴を残している。
松山市教育委員会
参道の右手に
山頭火の句碑
があった。
もりもりもりあかる雲へあゆむ
平成12年(2000年)8月27日、没後60周年記念に建立。
山頭火「愚を守る」跋文の中に太山寺で詠んだとあり、又、山頭火の句帳には昭和十五年九月一日と記されている。
柳原極堂の句碑
木の屑を焚いて佛師や秋の雨
柳原極堂(正之)慶応3年(1867年)温泉郡北京町、現松山市に生まれる。初の愛媛県民賞、松山市の名誉市民第1号。子規の顕彰に一生を捧げた。
左手の小高いところに松根東洋城の句碑があった。
春雨や王朝の詩タ
(うた)
今昔
東洋城は本名根豊次郎、東京に生まれる。宮内省に勤務、父は宇和島藩城代家老であった。漱石、子規に俳句を学び、大正4年(1915年)『渋柿』を主宰刊行する。昭和25年太山寺本堂にて句会の時、境内にみつけた碑石に近詠を刻んだ。「詩」を「うた」と詠ませるため「詩タ」と書いてある。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
子規の句碑
菎蒻につゝじの名あれ太山寺
明治25年(1892年)の句。
松山から一里ばかり離れた處に三津といふ港があつて、それが其時分松山から他に旅行する時の唯一の港であつた。現在は高濱といふ港が其近傍に出來て、其方に汽船が主として發著するやうになつたのであるが其頃は未だ其處は一漁村に過ぎなかつたのである。其の三津の近傍に太山寺といふ山があつて、そこには太山寺といふ寺がある。菎蒻が其處の名物であつてそれを太山寺菎蒻といつて、松山あたりの人々は特に賞翫して居た。そのまた太山寺には躑躅の花が見事であつた。そこで蒟蒻には太山寺菎蒻といふ名前があるが、又つゝじ蒟蒻といふ名前があつてもいゝではないか、と戯れて言つたものであらう。私の子供の時分には太山寺菎蒻といふのは名物であつたが、今は果してどうであらうか。躑躅の花も尚盛りであるかどうか。
高浜虚子『子規句解』
『子規全集』(第一巻)「寒山落木 巻一」(春 植物)に「
伊豫太山寺
」として所収。
句中の「こんにゃく」は昭和25年頃まであった太山寺名物こんにゃく田楽のことで、茶屋で売っていた。傍らの美しいつつじの名を借りて「つつじ蒟蒻」という名があってもいいではないかと戯れた気持ちの句。明治25年松山名所12ヶ月の句で、自筆の「寒山落木」に「伊予太山寺」と題しており、その文字を拡大して、昭和48年に建立した。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
太山寺山門
山門の前に「柳壟」があった。
八九間空へ雨ふる柳可南
『諸国翁墳記』
に「
柳 塚 与州三津濱
ニ
在 竹翁建 八九間空て雨ふる柳可南
」とある。
『続猿蓑』
巻頭の歌仙。八九間の巻の発句で、中七は「空で雨降る」が正しい。この発句は「高さ八九間もある柳の巨木がある。しかも葉が茂っているので、その木陰は小糠雨ぐらいでは濡れることもない。だから雨はそれより上の空にしか降っていないように見える」の意。
十月の中能二日や柳つか 蕉門老人 竹翁
この柳塚は寛保3年(1743年)10月12日芭蕉50回忌に建てられたもので、久万の
「霜夜塚」
とともに県下で、また海南道で最古の句碑である。竹翁は三津浜の人であるといわれている。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
太山寺本堂
国宝
である。
真言宗智山派
の寺である。
本尊十一面観世音菩薩は
行基菩薩
作と伝えられる。
太山寺
四国八十八か所
の52番札所である。瀧雲山護持院と号し、本尊は十一面観世音菩薩である。
この寺の開創説話に、炭焼き小五郎にちなむ伝承の「一夜建立の御堂」がある。豊後国(大分県)の炭焼き小五郎が黄金を発見し真野長者となった。あるとき、船で難波に向かう途中、高浜沖で大嵐にあったが、瀧雲山(経が森)に光明を見て助かった。翌日、山に登ってみると、小さな草堂に十一面観音が祀られていた。長者は霊験に報いるために、国に帰り、材を船に積んできて、一夜で堂宇を建てたという話である。この真野長者堂は、現在、本堂の左に祀られている。
寺伝によると、この寺は天平11年(739年)、聖武天皇の勅願により僧行基 が開いたという。平安時代には、冷泉から近衛までの歴代天皇が十一面観音像を奉納している。
伊予の豪族河野氏は、嘉元3年(1305年)と文明17年(1485年)に本堂、山門などの大修理を行った。その後、松山城主加藤嘉明、松平家歴代藩主の帰依を受け、今日に至っている。
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