このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
大寶寺
〜山頭火の句碑〜
久万高原町菅生に
四国八十八ヶ所霊場
44番札所大寶寺があるので、行ってみた。
四国霊場八十八ヶ所の半分に当たり、「中札所」といわれる。
昭和14年(1939年)11月21日、
種田山頭火
は大宝寺に参拝している。
十一月二十一日
早起、すぐ上の四十四番に拝登する、老杉しんしんとして霧がふかい、よいお寺である。
同宿の同行から餅を御馳走になったので、お賽銭を少々あげたら、また餅を頂戴した、田舎餅はうまい、近来にないおせったいであった、宿のおばさんからも月々の慣例として一銭いただいた。
『四国遍路日記』
山頭火の句碑
があった。
朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく
昭和60年(1985年)11月21日、
大山澄太
建立。大山澄太揮毫。
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、59番目の山頭火句碑である。
菅生山大覚院大寶寺
大宝元年(701年)、創建。
真言宗豊山派
の寺である。
石段の右手に
芭蕉の句碑
があった。
薬のむさらでも霜の枕かな
出典は
『如行子』
。
貞亨4年(1687年)11月、『笈の小文』の旅で熱田の門人起倒宅で詠まれた句。
翁心ちあしくて欄木起倒子へ藥の(事)いひつか(は)すとて
薬のむさらでも霜の枕かな
はせを
昔し忘れぬ草枯の宿
起倒
『如行子』
寛保3年(1743年)10月12日、芭蕉五十年忌に小倉志山が建立。
芭蕉蕉翁五十遠回にあたらせ給へば、遠津島根はさらなれや、深き山家の奥までも追福の沙汰、華をあやどり月を磨むにはいとありがたふこそ。
『
俳諧
霜夜塚』
元禄14年(1701年)、小倉志山は松山に生まれる。俗称は茶屋長次郎。俳号紅魚園・兎角坊。
寛保3年(1743年)10月12日、芭蕉五十年忌に霜夜塚を建立。
延享元年(1744年)11月、『
俳諧
霜夜塚』を刊行。
宝暦12年(1762年)、62歳で没。
『諸国翁墳記』
に「
霜夜塚 与州松山
ニ
アリ 志山坊建
」とある。
愛媛県最古の芭蕉句碑である。
草におおわれた崖の上なので、近付いて写真を撮ることは出来なかった。
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