このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
純信堂
〜芭蕉の句碑〜
四国中央市川之江町の国道11号(讃岐街道)沿いに「純信堂」がある。
純信堂の由来
土佐の高知の播磨屋橋で
坊さんカンザシ買うぞを見た
ヨサコイヨサコイ
この民謡の主人公は高知市五色山
竹林寺
の僧純信(本名岡本要)と五台山麓長江の鋳掛屋新平娘お馬である。時は安政2年幕末騒然のときで純信は37才お馬17才。法燈もえる五色山のロマンスである。2人は人目を忍ぶ恋中となり、純信はお馬の歓心を求めるため、 城下の
播磨屋橋
でカンザシを買うて与えたと云う評判が世間に広がり、我身にふりかかる。破戒僧の名、広い高知も恋ゆえせまく、2人は噂に堪えかねて関所を抜けて讃岐に逃れ、 金刀比羅一の坂の高知屋という旅宿に隠れていたのを追手に捕らえられた。2人の恋も束の間、高知城下に引きもどされ関所破りの罪で城下に晒しものにされた後、純信は藩外に、 お馬は仁淀川以西に追放された。お国追放になった純信は、伊予の川之江に来て、この地の顔従娚石
(めおといし)
亀吉(本姓河村家はこの前)のとこで世話になり、寺子屋を開き5、60人を教えていた。この頃、土佐の画家河田小竜という人が諸国漫遊の途、娚石亀吉を訪ねた時、旧知の純信にあい、お馬宛ての手紙(悲愁の恋文)を托されたが、お馬に渡さず筺底に秘せられていたということである。こうして2人はついに結ばれず、この物語となったのである。当地は純信巾ゆかりの地であるので、戦後2人の霊を慰おんと純信堂を建立しお祈りしている。
川之江市観光協会
純信堂の右手に
芭蕉の句碑
があった。
此阿多里目耳見由流も能身那涼し
(このあたりめにみゆるものみなすずし)
出典は
『風俗文選』
。
『笈日記』
には「
目に見ゆるものは
」とある。
貞亨5年(1688年)6月8日、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれた際に詠まれた句。
文政7年(1824年)6月、伊豫の國川の江の里龍淵子・其父車龍・祖父志隆建立。
柴田龍淵の祖父志隆は
不二庵二柳
の門人。
傍らに「一里塚跡」の碑があった。
平成16年(2004年)4月1日、川之江市は伊予三島市・土居町・新宮村と合併して四国中央市となった。
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