このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2012年
〜
竹林寺
〜五重塔〜
高知市五台山に
竹林寺
(HP)という寺がある。
神亀元年(724年)、創建。
行基菩薩
開基。
四国八十八箇所霊場
第31番札所である。
山門(仁王門)
山門の手前右手に句碑の庭があり、6基の句碑がある。
そのひとつに
芭蕉の句碑
があった。
ほろほろと山吹ちるか瀧の音
出典は
『笈の小文』
。
貞亨5年(1688年)、芭蕉45歳の句。
安永2年(1773年)3月12日、建立。
『諸国翁墳記』
に「
山吹塚 土州五臺山妙光寺境内
ニ
在 松陰亭子羽建
」とある。
松窓の句碑もあった。
折々は枯るるも時の柳かな
夢窓国師により作庭されたと伝えられ庭園があったが、旅の途中のことで拝見する暇がなかった。
文保2年(1318年)、夢窓国師は土佐に来錫し、五台山西麓に
吸江庵
を結んだ。
参道の石段
貞亨2年(1685年)9月、大淀三千風は竹林寺に着き、「五臺山文殊」の記を書いている。
○人々追うちて。吸江の美景とて。簟
(てん)
船に扇帆をあげ。烟の竿一ふくのうちに。五臺山竹林寺につく。記半軸を。
○五臺山文殊 孕山のモミジ
(※「木」+「色」)
の色は。八不の智劒に砥の粉をふり。吸江の子望月には三世覺母の溜乳を雫く。竹林の黄雀は中々をとなへて。三等の禪宮を守り。五臺の白鴿は空々をうめきて。一如の定殿に賽
(かへりまうで)
す。信にかゝる寂閑
(かみさび)
をごそかなる美風には。定朝が獅子も筆よりさきに走り。忠平が杜鵑も扇を離て鳴ぬべし。下略。
『日本行脚文集』(巻之五)
大師堂
寛永21年(1644年)、建立。
明治43年(1910年)9月25日、河東碧梧桐は俳句大会で竹林寺に赴いた。
九月二十五日。半晴。
五台山竹林寺は西国何番かの札所であるが、きょうそこで俳句大会を開くという。十町足らずの上りではあるが、折々漏れる日の光りよりも、頭を圧する雲の蒸暑さに堪えない。流るる汗を拭いもあえず、寺の本堂に着いてすぐ真裸になる。絞るようになった襦袢を日当りに干す。八月の猛暑が再び鉾を揃えて押し返したようだ。
『続三千里』
五重塔
塔とはインドの古い言葉で「スツーパ」といい、それが中国で音訳されて「卒塔婆」、さらに略されて「塔」と呼び慣わされるようになったもので、その起源はお釈迦さまのご霊骨(仏舎利)をお祀りする墳墓にはじまります。
最初その形は土饅頭型でしたが、やがて、仏教がインドから中国、そして日本へと東漸伝播するに伴いその姿は各地の風土や人々の精神に合わせ移り変わり、今日、わが国では三重・五重の層をなす塔姿となったものです。
今、天空にそびえ立つ塔を仰ぎ見れは、その姿は仏教東漸の長き歳月と伝来の幾多の風土の中、数限りない人々の仏を慕い仏に祈る心がひとつの形に清らかに昇華されたものとも映りましょう。
当山には古くは三重塔がありましたが明治32年の台風により倒壊、爾来、塔再建を悲願として来ましたが、昭和55年12月、全国より多くの般若心経写経奉納の浄業を得、五重塔として復興する事ができました。
鎌倉時代初期様式、総高31.20メートル、間口4.80メートル、総檜造り、使用木材1,320石、使用瓦2,800枚、宮大工延べ人数5,400人。建築工事はその設計施工全般を香川県詫間町 富士建設株式会社(真鍋利光社長)が請負、京都宇治の工匠 岩上政雄氏がその施工にあたりました。
塔内にはインド・ブッダガヤより勧請されました仏舎利を納め、また、初層内陣には大日如来を奉安しております。
本堂(文殊堂)
寛永21年(1644年)、建立。
国の重要文化財である。
本尊は文殊菩薩。
「日本三文殊」のひとつに数えられている。
山形県高畠町の
亀岡文殊
が「日本三文殊」のひとつに数えられることもある。
真言宗智山派
の寺である。
竹林寺の坊さんが「土佐の高知の
播磨屋橋
で」簪を買ったそうだ。
「私の旅日記」
〜
2012年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください