このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2013年

大聖寺〜亀岡文殊〜
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高畠町亀岡に大聖寺という寺がある。


真言宗智山派 の寺である。

亀岡百首

関ヶ原の戦い の後、上杉家は危機存亡の瀬戸際に立ったが、ようやく徳川体制の中で米沢30万石の大名として生きる道を得る。会津から大勢の家臣団を引き連れ、米沢への移転がひとまず終えたばかりの慶長7年(1602年)2月に亀岡文殊堂で詩歌の会が行われた。

主催者である、上杉家執政直江兼続が風雅の友(上杉家家臣等)20余人を伴い、文殊堂に参詣し、詩歌の席を設けたものである。文人としても名高い直江兼続の漢詩はじめ、前田慶次利貞、実弟大国実頼ら有名な武将の詩歌があり、歴史資料・文化資料として高い価値を有する。

高畠町観光協会

大聖寺本坊から亀岡文殊堂へ。


参道の左手に芭蕉の句碑があった。


春の夜ハ櫻に明けてしまひけり

出典は 『翁草』 (里圃編)。

何時どこで詠まれた句か、不明。

『蕉翁句集』 (土芳編)は「元禄四未とし」とする。

建立年は不明。

鐘楼堂


享保15年(約280年前)この境内で即身佛になった待定坊が諸国を行脚し沢山の浄財を得て建立された豪壮で、この地方では稀に見る建築物です。

堂内には待定坊の尊像が安置されています。

楼上に天正19年(約420年前)伊達政宗が奉納した永仁4年(約720年前)鋳造した資福寺の古鐘があったが、破損したので原型通り鋳直し、本坊大門傍にある鐘楼堂に祀ってあります。

鐘楼堂の右手に「梅花佛」があった。


各務支考 の供養塔である。

亀岡文殊堂


亀岡文殊畧縁起

大聖文殊師利菩薩は、人皇二十八代宣化天皇の2年正月(約1,400余年前)震旦国(中国)五台山より伝来、伊勢国、神路山に安置されてあったが、五十一代平城天皇の大同2年勅命により奈良、東大寺住持、徳一上人がここにお移しになされたものである。

爾来、日本三文殊の随一として(日本三文殊とは出羽の亀岡・大和の安倍・丹後の切戸)中納言格の待遇を受け、畏くも勅願所として皇室の崇敬厚く、国家安穏の御加持を命ぜられ、又、徳川時代には五代将軍綱吉は深く帰依され、御朱印百石を賜り十四代将軍家茂のときまでつづきました。

現今の文殊堂は、大正三年の改築にして工学博士伊東忠太氏の設計によるものである。

御縁日 毎月 廿五日

高知の 竹林寺 が日本三文殊のひとつに数えられることもある。

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