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新年の旅日記

川之江城〜碑巡り〜
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四国中央市川之江町の川之江城に行く。

天理教川之江大教会から川之江城を見上げる。


坂を上っていくと、 河東碧梧桐 の句碑があった。


釣舟見れば鱚(キス)のつりたく波足洗ふ

『三昧』 大正15年(1926年)に「伊予川之江」と題して収録の句。

昭和62年(1987年)6月、川之江文化協会・川之江市観光協会建立。

 平成16年(2004年)、川之江市は伊予三島市、土居町、新宮村と合併して四国中央市となった。

さらに坂を上ると、二州尾藤先生碑があった。


大正3年(1914年)、尾藤二洲百年忌に建立。

 平成25年(2013年)12月4日、尾藤二洲先生没後200年記念式典が開催されたそうだ。

天守閣へ。


白木裕の歌碑


川之江は椿咲くころ良き人をしぬひて居れ鳥が音聞こゆ

裕は尾藤二洲伝の著者。白木豊の号。昭和38年この城山で二洲をしのんで詠んだ歌である。

尾藤二洲の「梅花五言古詩」


梅花   尾藤二洲

此の花は花中の選
   人能く汝に儔(ともがらと)するは誰ぞ

一たび孤山に従って逝き
   風情独り自ら知る

吾其の淸高を愛するも
   而も未だ相隨ふ能はず

早晩塵絆を解かれなば
   汝に野水のほとり(※サンズイ+「眉」)に就かん

天守閣


川之江城史

 南北朝動乱の頃(約650年)、南朝方、河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337年)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。

 興国3年(1342年)北朝方、細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。

 義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ちのびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の湊で戦死している。

 細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572年)阿波の三好長治が攻めいったが、撃退している。

 土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて、城を攻めとらせた。天正7年(1579年)前後のことと思われる。河上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582年)長宗我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ヶ嶽より年姫が飛込んで自殺したという悲話伝説も残っている。

 天正13年(1585年) 豊臣秀吉 の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わり、 加藤嘉明 のとき最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江城が地理的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。

 戦国の世も終わった寛永13年(1636年)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642年)病没。領地は没収されて幕領となり、明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。

姫ヶ嶽


 天正10年(1582年)6月10日、川之江城主河上但馬守が三島宮に詣でての帰途、村松字崩の松原に於て、謀臣秋山嘉兵衛の為に誘殺され、城は秋山の内通により轟城主の大西備中守の急襲をうけて、落城するに至った。

 この時、但馬守の息女年姫は横死の父のあとを追って、この断崖より燧灘に身を躍らして、はかなくも花の生涯を閉じたといわれている。

 春風秋雨380余年、落城の秘話として今に伝えて、ここを姫ヶ嶽と呼ぶ。

   姫ヶ嶽海に身投ぐるいや果てもうまして入りぬ大名の娘は

石垣に 与謝野晶子の歌 が刻まれている。


姫が嶽海に身投ぐるいやはても馬して入りぬ大名の娘は

昭和6年(1931年)11月1日、 与謝野寛・晶子 夫妻は川之江を訪れている。



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