このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
加藤嘉明公銅像
〜加藤嘉明公年表〜
松山市丸之内の
松山城
ロープーウェイ東雲口駅北側に加藤嘉明公銅像があった。
加藤嘉明公銅像
加藤嘉明公年表(1563年〜1631年)
永禄6年(1563年)、三河国永良郷賀気村(愛知県)に生まれた。
天正3年(1575年)、
羽柴秀吉
に見出されて弟の羽柴秀勝の小姓となり加藤姓を名乗る。
天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家との戦いでは、名高い「
賤ヶ岳七本槍
」の一人として奮戦し3,000石の知行を与えられる。
その後、秀吉の旗本として多数の武功をあげ、文禄4年(1595年)伊予松前(正木)6万石に転封した。
秀吉の死後は
徳川家康
に仕え、
関ヶ原の戦い
の後、慶長6年(1601年)伊予半国20万石に加増される。
慶長7年(1602年)正月15日、松山城の築城を創める。翌年居城を松前から松山に移した。
文禄4年(1595年)から6年間の松前時代と慶長6年(1601年)から26年間の松山時代に、城主として城下町の整備や重信川・石手川の水利を整え良田を開発し、更に殖産に意を注いで領民の生計安定に努めた。
寛永4年(1627年)、陸奥
会津
40万石に加増転封となる。
寛永8年(1631年)9月12日、69歳の時、江戸桜田の会津藩邸にて死去した。
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