このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
松山城
〜日本100名城〜
山麓駅「東雲口』からリフトに乗って山頂駅「長者ヶ平
(ちょうじゃがなる)
」へ。
子規の句碑
があった。
松山や秋より高き天主閣
明治24年(1891年)の句。
『子規全集』(第一巻)
「寒山落木 第一」
(明治廿四年 秋)に所収。
昭和41年(1966年)9月、子規漱石極堂生誕百年祭記念に建立。
ちなみに昨年が生誕百五十年。
今年は漱石没後百年。
「松山市観光俳句ポスト」になっている。
松山城は
日本100名城
No.81である。
現存12天守
の一つ。
桜が咲いていた。
松山城の石垣
石垣は、松山城を特徴づける構造物の一つで、中でも「登り石垣」は、全国で最大規模を誇ります。石材には、主に花崗岩が使用され、隅部はほとんどが算木積です。
本丸を囲む高石垣は、高さ10mを越え、美しい曲線を描く扇勾配と、屈折を連続させることで防御性を高めた屏風折が特徴です。江戸時代に改修を受けている部分もありますが、北側を中心に、加藤嘉明による築城時「慶長7年(1602年)〜」の典型的な石垣が良く残されています。その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打ち込みハギの乱積です。
一方、本壇の石垣は、北側と南側で異なっています。北側は、時期はわかりませんが、打ち込みハギの布積で、隙間に合わせて加工された間詰石が詰め込まれている特徴が見られます。南側は、北側より新しく、嘉永年間(1848〜1854年)、天守などが再建された際に、新しく積みなおされ、十分に手間をかけた切込ハギの布積で、隙間のない整った外観となっています。
戸無門前から天守を望む。
明治43年(1910年)8月10日、河東碧梧桐は松山城のことを書いている。
松山城ほど天守閣角櫓等のの完全に保存されておるのは全国にその比を見ぬ。久しく陸軍の管轄に属していたのが、この頃市有に戻されて、すでに松山公園としての設備に取りかかっておるという。信州
松本
の一天守閣を、同地の中学校長小林氏が独力で修繕しておるのは、建築物の保存という神聖な企図に成ることを思えば、松山城の如きは市の公金をもって十分に補護する価値があると思う。
『続三千里』
太鼓門
馬具櫓
本丸広場「城山荘」で「松山鍋焼きスカレーうどん」を食べた。
「スカレー」は横須賀カレーのこと。
紅梅が咲いていた。
寛永12年(1635年)、松平定行が
桑名
から松山藩15万石に移封。
松山城天守
重要文化財
天守
慶長年間、加藤嘉明が松山城郭を創建した当時、天守は五重であったといわれる。
寛永19年(1642年)に松平定行が三重に改築したが、それから約140年のちの天明4年(1784年)に雷火のため焼失した。その後70年を経て安政元年(1854年)に天守の再建工事が落成した。これが現存のもので、三重三階地下一階附の建造物である。
昭和10年国宝に指定されたが、同25年法の改正により重要文化財となった。
一ノ門へ。
『坂の上の雲』オープニングの写真
撮影場所
は現在工事中で、入れなかった。
三ノ門
昭和6年(1931年)11月2日、
与謝野寛・晶子
夫妻は松山城に登っている。
海清し四國のさくら紅き葉をおとし初めたる松山の城
松山の城より秋の海見れば大地も持てりうつくしき蔓
なかば海なかばはやまを見る城の十一月のしろき石段
「緑階春雨」
天守から本丸広場を見下ろす。
昭和10年(1935年)、
中村草田男
は再び松山に帰省。松山城を訪れている。
再び歸省、松山城にて
炎天の城や四壁の窓深し
同
炎天の城や雀の嘴
(はし)
光る
『長子』
仕切門
今年の旅日記
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください