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私の旅日記
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2011年
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若松城
〜荒城の月碑〜
会津若松に来たのだから、「若松城」へ。
ふくしま緑の百選
鶴ヶ城の緑
昭和60年6月選定
主唱/福島民報社・福島県緑化推進委員会
桝形
ここに見られる石垣は今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。
若松城の大手門として堅固な石垣に囲まれ(枡形)、さらに右に曲がった場所には内部を見透かされないように門(北出丸大手門)がありました。
この枡形は敵を三方から攻撃できる利点がありました。
天正18年(1590年)、蒲生氏郷は
伊勢
より会津に移封。
慶長3年(1598年)、上杉景勝は会津120万石に加増移封。
慶長6年(1601年)、上杉景勝は
米沢
30万石に減封移封。
寛永4年(1627年)、
加藤嘉明
は松山藩20万石から会津藩40万石に加増移封された。
南北朝の頃、葦名氏によって黒川城が築かれたが、文禄元年(1592年)蒲生氏郷が7層の天守閣を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した。
上杉から再び蒲生、そして加藤となり、寛永16年(1639年)加藤明成が天守を5層にし、北出丸、西出丸を増築して現在の城跡を完成させている。
戊辰の役
(1868年)には1ヶ月の籠城に耐えた。
鶴ヶ城
寛永20年(1643年)、三代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が
山形
より23万石で入封。
文化11年(1814年)8月末、
十返舎一九
は松本を出立、越後路を経て会津若松へ。
へたのよこずき、ちくらぼうとうちつれてあいづにみるに、げにもはんじやうの御城下にて、あきんど、のきをならべ、このところのめいぶつとて、いつさいのさしもの、ぬりものをうるいへおほし。そのほか紙、らうそく、うるしなどおほくいづるめいぶつなり。ちくら坊とりあえず、
子等までもうたひつれたるひとふしは
めでためでたの若松の町
「越後路之記」
嘉永5年(1852年)1月29日、吉田松陰は会津若松に着き、
「清水屋旅館」
に泊まった。2月6日まで滞在。
廿九日 朝雪、已にして晴る。勢至堂を発し、坂を登り、少
(しばら)
くにして山巓に至る。是れを勢至堂巓
(たうげ)
と為す。巓は磐梯山と対す。三代・福良・赤寸・原・赤井を經て、若松に宿す。會津侯松平肥州の都なり。
『東北遊日記』
嘉永5年(1852年)3月28日、吉田松陰は再び会津若松へ。
明治元年(1868年)9月22日、若松城開城。
明治7年(1874年)、若松城は取り壊された。
昭和9年(1934年)、鶴ヶ城が国の史跡に指定され、「若松城」と登録された。
昭和11年(1936年)9月7日、
与謝野晶子
は
東山温泉
から鶴ヶ城へ。
いにしへの蒲生が月見櫓吹く會津の領の秋の山風
秋風が今は行くのみ鶴が城北の出丸も帶の廓も
『冬柏』(會津詠草)
荒城の月碑
名曲「荒城の月」が鶴ヶ城と
青葉城
をモチーフに作詞されたことは、土井晩翠氏を招いた音楽祭であきらかになった。時は昭和21年のことである。
翌年、有志により詩碑建設会が設立され、同年6月5日土井晩翠夫妻を招いた盛大な除幕式が行われた。
この詩碑には、晩翠氏直筆による荒城の月1番〜4番までの歌詞が記されている。
昭和40年(1965年)、鶴ヶ城再建。
平成18年(2006年)4月6日、
日本100名城
に選定される。
平成23年(2011年)、赤瓦へ葺き替えが完了。
鉄門
柱や扉は全て鉄で覆われているそうだ。
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