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私の旅日記
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2013年
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上杉神社
〜米沢城〜
米沢市丸の内の上杉神社へ行く。
松ヶ岬公園に「上杉鷹山公之像」があった。
平成6年(1994年)5月、米沢松ヶ岬ライオンズクラブ建立。
米沢城
伊達氏、上杉氏の居城で、松岬城、舞鶴城とも呼ばれる。
米沢城の起源は、鎌倉時代に地頭・長井時広が居館を置いたと伝えられる。その後長井氏に替わり伊達氏が置賜地方を領し、天文17年(1548年)には伊達晴宗が本拠地を米沢に移し、輝宗・政宗の3代で米沢城下が整備された。
天正19年(1591年)、政宗は豊臣秀吉の命で岩出山城に移り、米沢城には蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安が入るが、慶長3年(1598年)に上杉景勝が
会津
120万石に入封、米沢城には重臣・直江兼続が配された。
慶長6年(1601年)、前年の関ヶ原の戦いで西軍方についた上杉景勝が米沢30万石に減封され米沢城に入城、城下の拡張整備に着手した。
以後、寛文4年(1664年)に後継問題で米沢藩は15万石となるが、米沢城は約270年間にわたり上杉氏13代の居城として明治維新を迎えた。
城郭は平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の縄張りで、三の丸の東側には町人町・職人町が置かれた。本丸の中央は藩主の住む御殿があり、東南隅の高台には上杉謙信の遺骨を祀る御堂(祠堂)が建ち、北東と北西の隅には三層の隅櫓があった。
明治になって御殿や隅櫓は取り壊され、本丸跡は松ヶ岬公園と上杉謙信を祭る上杉神社になる。堀と土塁が往時を偲ばせ、堀の周囲には桜の木が並び桜の名所ともなっている。
「上杉謙信公之像」
上杉謙信
戦国末期、群雄割拠の中にあって「越後の虎」と怖れられた文武兼備の名将である。大儒者 藤原惺窩は、戦国の世に学問を好んだ武将5人の筆頭に謙信の名をあげている。
謙信は享禄3年(1530年)1月21日、越後の守護代長尾為景の次男(一説に三男)として越後春日山城に生まれた。幼名は虎千代。元服して平三景虎と称した。7歳のとき春日山林泉寺に預けられ、名僧天室の教えを受ける。謙信の生涯を貫く深い信仰心は、このとき培われたものであろう。
天文12年、14歳の影虎は兄晴景の命によって林泉寺を離れ越後平定に助力する。晴景に代わって長男家を継ぎ春日山城主となったのは19歳の冬であった。
以来戦いにあけくれる日々を送る。攻めれば必ずこれに勝ったが、侵略のために兵を動かすことは絶えてなく、すべてが義のための戦いであった。
戦国期最大の激戦と称される永禄4年(1561年)の
川中島合戦
は、武田信玄との一騎打ちで広く知られるが、これも信玄に侵略された信濃諸国を助けるための義戦であり、謙信が戦術家としての天賦の才を遺憾なく発揮した一戦であった。
この年、関東管領上杉憲政の養子に迎えられ、上杉政虎と改名して管領職を引継ぎ、同年冬、将軍足利義輝の一字を賜って輝虎と改める。謙信と称するのは41歳の元亀元年からである。
謙信は毘沙門天を深く信仰し、軍旗に「毘」の一字を用いた。出陣に際しては神仏の加護を願い、天に代わって世の邪悪を払う「武テイ
(※「テイ」=「示」+「帝」)
式」を執り行った。生涯女性を近づけなかったのも信仰上の信念によるものであろう。
謙信は詩歌・連歌の道にも堪能で、書は近衛流の名手と称された。天正5年、七尾城外で詠んだ「九月十三夜」は、いまも人々に親しまれている。
天正6年(1578年)3月9日、関東平定の出陣を前にして病で倒れ、同13日、突然として逝った。享年49。遺体は甲胄を着て甕に納められ、上杉家廟所の中央に眠る。
米沢ライオンズクラブ30周年記念
平成6年10月2日
九月十三夜陣中作
霜満軍営秋気清
霜は軍営に満ちて秋気清し
数行過雁月三更
数行の過雁月三更
越山併得能州景
越山併せ得たり能州の景
遮莫家郷憶遠征
遮莫
(さもあらばあれ)
、家郷の遠征を憶うを
天地人
火坂
上杉景勝公・直江兼続公主従像
慶長6年(1601年)、上杉家は関ヶ原の戦の責めを負って、会津12万石から米沢30万石に移封された。初代藩主は上杉景勝公、その執政が「愛」の前立ての兜で知られる直江兼続公である。二人の主従は固い絆でむすばれ、義と愛の心で領国経営にあたり、米沢藩270年にわたる治世の礎を築いた。米沢市民は今なお両公に対し深い敬慕の念を抱いている。
平成21年(2009年)、火坂雅志原作の『天地人』がNHK大河ドラマで放映されるや、景勝公と兼続公の精神と事蹟が一躍全国に知られるところとなった。これを機に、米沢藩を創始した二人の主従の事蹟を改めて顕彰し、義と愛の精神を人々の心に永くとどめるため、有志相集い、志を募り、「天地人」と命名して『上杉景勝公・直江兼続公主従像』を建立することにした。
この像は、当時の国内情勢混沌たる中、不屈の意志をもって未来へ向かおうと、米沢入部の途次、新しいまちづくりについて二人の主従が語り合う姿を表現している。この像に託された両公の胸中に思いを馳せていただければ幸いである。
NHK大河ドラマ『天地人』は見ていないが、直江兼続のことが少し分かった。
「上杉鷹山公之像」
上杉鷹山公
(上杉家十代)
窮乏の淵にあった米沢藩を、卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代随一の名君として知られる。宝暦元年(1751年)7月20日、高鍋藩主秋月種美(3万石)の二男として誕生。幼名松三郎または直松。母は秋月藩黒田長貞の娘春姫。
春姫の母は(上杉家五代)上杉綱憲の娘である。宝暦10年、(上杉家九代)上杉重定の養子に迎えられ、明和3年、治憲と改名。翌4年、17歳で米沢15万石の藩主となる。
幼少から折衷派の儒者細井平洲に師事し、実学一致の経世論を見につけた。藩主となるや、大検令・産業開発・藩校興譲舘の創立・政務の革新等を断行し、隠居後も政務に参与して再建に努めた。米沢織・米沢鯉・深山和紙など鷹山の興した産業は現在に伝承されている。天明5年(1785年)、養子治広に家督を譲って隠居し、鷹山と号した。民主政治の原点を示した「伝国の辞」は、このとき新藩主治広に与えたものである。文政5年(1822年)3月12日、没。春秋72。上杉家廟所に眠る。
追文
アメリカ合衆国第35代大統領J・F・ケネディが、日本人記者団の質問に「日本の政治家で最も尊敬しているのは上杉鷹山である」と答えたとは夙に有名である。
さらに最近では、わが国の行政革新の先駆者としての公の名は高まるばかりである。
わが郷土米沢が世界に誇る偉人をさらに永く、広く世人に知らしめるため、ここに「上杉鷹山公像」を建立したものである。
米沢中央ライオンズクラブ
上越中央ライオンズクラブ
J・F・ケネディの話は知らなかった。
「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」は上杉鷹山公の言葉であった。
上杉神社
上杉神社御由緒
御祭神 上杉謙信公
天正6年(1578年)3月13日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城で49才で急逝された時、その遺骸を城中不識庵に仏式を以て鎮祭されたのであるが、二代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修し、爾来260年に及んだ。
明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、米沢藩の中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、同9年には新たに神殿成り、初めて遷座祭を行なう。明治35年、往時の勤王の功により別格官幣社に列せられたが(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。
大正8年米沢市の大火後、同12年米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士の設計により現在の社殿を始め一切を竣成したのである。境内は旧米沢城址本丸跡で、例祭は4月29日(歿年3月13日を太陽暦で換算)。
明治39年(1906年)10月26日、河東碧梧桐は喜多方から綱木峠を越えて米沢に着いた。
米沢は市の真中へ行くほど、家が踈
(まだ)
らになる。丈の高い古桑が林をなしておる。一面の畑の処もあれば、田も作ってある。賑やかな町というのが、市の四方の外廓をなしておるのは一奇観じゃ。
旧城址を開いて、松が岬公園というが、園中には上杉神社があるばかりで、ガランと押開いておる処は、やはり米沢趣味を発揮しておる。
山桑の木高さや菊も作り捨つ
『三千里』
野口雨情
の詩碑があった。
あづま山から兎がはねてぴょんとここまでこえばよい
昭和61年(1986年)11月、建立。
この詩は、大正15年4月女流歌手第1号といわれた天童市出身の佐藤千夜子、作曲家中山晋平と共に来県された当時、文学青年の集まりであった「あづま詩社」の招きで米沢を訪れた折りの作品である。
私の旅日記
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