このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2013年

清水屋旅館跡〜吉田松陰〜

会津若松市大町の国道252号(七日町通り)沿いに大東銀行会津支店がある。


大東銀行会津支店の前に「清水屋旅館跡」があった。


まちに歴史あり

〜歴史の舞台・清水屋旅館跡〜

 この場所には多くの歴史的人物が宿泊した「清水屋」という旅館がありました。

 幕末の志士たちに大きな影響を与えた吉田松陰は嘉永5年(1852年)22歳の時に東北各藩を歴訪する大旅行をしており、中でも会津藩(藩校日新館)には特に強い関心を示し、2度にわたって訪れ見聞を広めています。松陰の旅の記録『東北遊日記』に記された七日町の宿がここ「清水屋」でした。

 松陰が会津を去ってから16年後に戊辰戦争がおこります。会津藩と運命を共にした新撰組副長・土方歳三は 宇都宮城 の攻防で足を負傷し、会津田島を経て「清水屋」に運び込まれ治療を受けています。土方はその後、函館 五稜郭 まで転戦し、西軍と徹底的に戦い続けたのです。

 明治15年7月には、同志社大学の創始者新島襄・八重夫妻が初めて会津を訪れました。山本覚馬(新島八重の兄)の先妻の娘夫婦(伊勢時雄・峰)も同行し、八重と峰にとっては約10年ぶりの故郷訪問でした。27日には会津に到着し、この清水屋旅館には約1ヶ月宿泊したといわれています。

 木造3階建ての純日本旅館清水屋は、幕末から明治・大正にわたって会津の歴史を見つめ続け、昭和初年に惜しまれながら取り壊されました。

会津若松観光協会

 嘉永5年(1852年)1月29日、吉田松陰は 会津若松 に着き、2月6日まで滞在。

 嘉永5年(1852年)3月28日、吉田松陰は再び会津若松へ。

廿八日 翳。駅を発し熊倉に至る。此れより始めて平地となる。塩川に至る。二川あり、皆橋を架す。川は猪苗代の湖水に発し、流れて津川に至る。行程六里半。


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