このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

松山神社〜酒井黙禅〜
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松山市祝谷東町に松山神社がある。

 松山神社の手前「オステリア道後」の角に酒井黙禅旧居「田高庵」の碑があった。


月盈虧田高の庵の眺めかな

盈虧(えいき)は月の満ち欠けのこと。

 側面には「昭和二十五年五月三十日 此日祝谷田高庵に第一夜をすごす。時に晩春の月中空に在り。明日は満月。」とあったようだ。

「田高庵」の庭に酒井黙禅の句碑がある。


神木唐楓さ庭に風媒畏しや

松山神社の石段


石段の右手に 高浜虚子の句碑 があった。


しろ山乃鶯来啼く士族町

 虚子が酒井黙禅の旧居田高庵に遊んだ記念として、虚子の郷里に関する名吟の中から右の句を石に刻んだ。句は明治37年3月、俳誌「ホトトギス」に発表されたもので、酒井家所蔵の半切をそのまま写した。

 その後、中七の「啼く」は「鳴く」として全集等に登載されている。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

石段半ばの鳥居


右手に酒井黙禅の句碑があった。


東風の船高濱に着き五十春

 「ホトトギス」同人酒井黙禅が東大医学部卒業後、日赤松山病院長として赴任したのは大正9年3月のことで、38歳であった。その時、虚子は、「東風の船博士をのせて高浜へ」の句を贈って、黙禅の前途を祝福した。

 この句碑の句は、虚子の右の句を受けたもので、伊予在住50年を記念しての句である。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

松山神社


 祭神は、 徳川家康 公で相殿に菅原道真 公を祀る。元和4年(1618年)、松山城主加藤嘉明が湯月八幡宮の境内に小祠を建て、家康公の神霊を祭祀したが、明和8年(1765年)に松山藩主松平定静が祝谷の田高の丘(現社地)に社殿を造営し、 東照宮 と称え、城下の鬼門鎮護の神として崇敬した。

 また、延喜元年(901年)、菅原道真が筑紫に左遷されていく途中、祝谷山崎の丘に立ち寄りて、温泉に浴したという故事により、里人が 太宰府天満宮 より旧跡の山崎の丘に神霊を勧請し、天満神社として尊崇していた。

 その後、明治43年(1910年)、東照宮に天満宮を合祀し、松山神社と改称した。

 現在の社殿は、元治2年(1865年)に造営されたものであり、典型的な権現造りの面影を、今もそのまま伝えている。

松山市教育委員会



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