このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

慈眼寺〜月見塚〜
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新居浜市西の土居町に慈眼寺という寺がある。

正法山慈眼寺


慈眼寺の歴史

慈眼寺の歴史は古く、源平合戦の時、源氏に味方して戦った関東武士で、金子十郎家忠が、その功績によって伊豫の国の、新居郷と、兵庫の「いかるがの庄」の領地を与えられ、約100年後の弘安6年(1283年)頃に、金子頼広(家忠より5代目)が、当地に来て、館を、現在の慈眼寺の地に構えて山上に砦を築きて、金子城(別名=橘江(きっこう)城)とします。また、城の北側の山麓に、菩提寺を建立します。その後、応永13年(1406年)に、立派な堂宇が再建されました。当時の宗派は臨済宗(禅宗)で、鎌倉の寿福寺派に、属していました。その後、天正13年(1585年)に、秀吉の四国攻略が起こり金子城も落城して、お寺も戦火に遭い、焼失します。当寺、金子城を守備していた、備後守の弟の対馬守元春は、今治の大雄寺に逃れて行き、自害しようとした時、住職の宗虎和尚に止められ『お前は、生きて僧侶となり、この戦いで死んだ人達の霊を弔え』と諭されます。そして、和尚の弟子となり、修行の後に、和尚の紹介で、現在の福島県いわき市平の、長源寺の卓眼和尚を訪ねて行き師事し、修業の後に、故郷の地に帰り、戦いで生残りの者や、遺族達と力を合わせて、金子城の館跡へ寺院を建立します。時は、慶長18年(1613年)です。・・これが現在の慈眼寺の始まりです。名称は「松樹林=正法山、慈眼寺とし、宗派は、 曹洞宗 です。次に初代=関庵本徹和尚(対馬守元春)は、当寺の、名僧でした。百九代=明正天皇より、御諭旨を賜り、また、三世=安禅恩長和尚も賜っています。故に、本堂の屋根の棟に、16弁の菊の紋章を付ける事を、許可されます。尚、現在の慈眼寺は、『天正の陣』の400年を記念し、平成4年に、総て新しく建替えました。慈眼寺には、金子山古墳、金子城の戦い別子銅山との関係、その他色々の歴史が有ります。

正法山慈眼寺

裏山の金子城址に上る。

慈眼寺を見下ろす。


金子山古墳


国旗掲揚台を過ぎると「蕉翁之墓」があった。


明月にふもとの霧や田乃く茂里

出典は 『続猿蓑』 (沾圃編)。

 元禄7年(1694年)8月15日、伊賀上野 「無名庵」 で月見の宴を催した時の句。

嘉永6年(1853年)8月、建立。

  『諸国翁墳記』 に「月見塚 豫州新居郡金子村慈眼寺山上 名月に麓乃きりや田乃曇り」とある。



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