このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
新年の旅日記
福井城祉
〜松平春嶽像〜
福井市大手に福井城祉がある。
御廊下橋
が見える。
福井城の歴史
天正3年(1575年)に織田信長は重臣柴田勝家へ越前8郡をあたえましたが、その際に勝家は足羽川と北陸道が交わる交通の要所であった北庄(後の福井)に城を築きました。その後、慶長5年(1600年)
関ケ原合戦
で東軍(徳川方)が勝利すると、結城城主であった結城秀康(1574〜1607)は、父徳川家康から越前68万石を拝領して、初代福井藩主となりました。翌年、越前に初入国した秀康は、直ちに福井城(当時の名称は北庄城)の大修築に取り掛かり、同11年には四層五階の天守のある壮大な城が完成しました。
結城秀康公肖像
(武生市 龍泉寺蔵)
福井神社に松平春嶽像があった。
松平春嶽(1828〜1890)
松平春嶽は、幕末から明治時代の大名、政治家です。
11歳のときに越前松平家の養子となり、福井藩の殿様となりました。
春嶽は、由利公正、中根雪江、橋本左内といった有能な人材を登用するなどして、当時、深刻な財政難に苦しんでいた福井藩の政治改革に取り組みました。また、早くから「外国と国交を樹立し貿易をすべきだ」という開国論を主張しました。
その後、将軍の後継ぎ問題で大老井伊直弼と対立したため、藩主の地位を追放されました(安政の大獄)が、
桜田門外の変
で井伊直弼が暗殺されると、春嶽は政事総裁職という役につき、参勤交代制を緩めたり、洋式軍制を新しく取り入れたりしました。
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